時刻表1977年9月号【直通運転その1】

国鉄・JRと他社線との直通運転(乗り入れ)は古くから行われており、現在でも全国で数多く行われているのはご承知のとおりです。
しかしながら、新幹線並行在来線の三セク化が進み出してからはそれまでJR内の運転だったものがJRとJR以外との直通運転になるという、従来型「他社線乗り入れ」とは趣の異なるケースが各地で多発し、結果的に直通運転を行う路線数が増加してきている現状です。
それはともかく、今回は1977年9月当時行われていた国鉄と他社線との直通運転のうち、現在は行われていない事例をご紹介していきたいと思います。掲載ページをできるだけ大きく載せていますので、直通運転以外の懐かしの列車もゆっくりご覧くださいませ。

かつて鹿児島県内では、日本最南端の直通運転が行われていました。

鹿児島交通枕崎線(旧・南薩鉄道)は鹿児島本線伊集院と指宿枕崎線枕崎とを結び、日に3往復の列車が伊集院から鹿児島本線に乗り入れて西鹿児島(現・鹿児島中央)まで運行していました。
枕崎-西鹿児島間を移動する場合、指宿枕崎線経由が2時間半〜3時間で運賃680円なのに対し、鹿交・伊集院経由の直通列車だと2時間半以内で880円。枕崎駅では国鉄列車の発着がない時間帯に鹿交の直通列車が発着するダイヤが組まれていて、相互補完も念頭に置かれていたのかなという気がします。
この当時は経営合理化により交換可能駅が日置・伊作・加世田の3駅に整理され、加世田-枕崎間は20.6キロで1閉そくという閑散区間となっていました。その後、1983年の豪雨災害の影響で1984年3月に鹿交枕崎線は全線廃止となります。
国鉄キハ10系をベースとした両運転台車キハ300形が国鉄乗り入れ用として、また、総括制御のできない機械式気動車キハ100形が自線内のみの運用に就いていました。キハ100形は外見こそ異なるものの夕張鉄道から岩手開発鉄道へ転籍したキハ301とほぼ同仕様の車両です。

余談ですが、この当時は夜行列車花盛りで、ブルートレインが新大阪発「明星2」と東京発「はやぶさ」、その他の「明星」と「なは」が581系寝台電車による運転でした。581系や583系の夜行列車は基本的にB寝台車とグリーン車のみの固定編成なんですが「明星1」には普通車指定席2両、「なは」は八代から自由席車が設定されています。「明星2」は2両分の寝台をセットせず座席車として運行し、「なは」は八代到着までに何両かの寝台を畳んで座席にしていたものと思われますが、当時全国の581系・583系夜行列車の中でハザの設定があったのはここだけでした。

続いて長崎県の島原鉄道です。
現在は長崎本線諫早と島原市中心部に近い島原港(旧・島原外港)を結んでいますが、2008年までは天草諸島への入口である口之津を経て加津佐まで、島原半島をほぼ2/3周する全線78.5キロの長大路線でした。
雲仙普賢岳噴火による長期運休が乗客減少→一部廃線につながってしまったのが悔やまれます。

直通運転はいずれも島鉄所有のキハ20形と急行併結用キハ55・キハ26形が片乗り入れする形で、国鉄線内普通列車として長崎・佐世保へ行くもの、国鉄急行に併結して博多・小倉へ行くものなど、運行形態はバラエティに富んでいました。諫早駅では4番線で国鉄車両との分割併結を行ない、島鉄専用の0番線との間で転線していました。

保育社カラーブックス「ディーゼルカー①私鉄」から(以下同じ)

国鉄との直通運転は1980年10月改正をもって廃止。今も諫早駅手前からJRへの渡り線が、レールだけかろうじてつながっている状態ながら現存しています。
島鉄は1970年前後に路線の大半を自動閉そく化していますが、諫早-本諫早間は長らくタブレット閉そくのまま残されていました。直通運転があった頃は島鉄を含めて諫早駅構内の全ての信号機や分岐器は国鉄側が制御していたようなので、そのためだったのかも知れません。
参考サイト 島原鉄道1980・8

島原鉄道そして最初の鹿児島交通もですが、自然災害による廃線は本当に居た堪れない思いです。

次は紀勢本線藤並駅で接続する有田鉄道。
読みは「ありだてつどう」なんですが紀勢本線には紀伊有田(きいありた)という駅もあってややこしく、さらに蛇足ながら紀伊有田駅の所在地も東牟婁郡串本町有田(ありだ)という混乱状態です。

野上電気鉄道と有田鉄道は現存せず、紀州鉄道も路線短縮

直通運転というと観光地の最寄駅や県庁所在地など地域の核となる都市の駅まで乗り入れるのが一般的ですが、有田鉄道の直通運転は藤並-湯浅間の1駅のみ、しかも湯浅は歴史のある港町とはいえ観光地や主要都市と言いづらい場所ではあります(湯浅の皆様すみません 汗
みかんや木材を湯浅港へ運ぶ目的で金屋口-藤並-湯浅-海岸間を開通させたのが1916(大正5)年、紀勢本線の前身・紀勢西線が和歌山方面から藤並まで到達したのが1926年と、国鉄(鉄道省)よりも有鉄のほうが先輩格という関係です。のち紀勢西線が湯浅まで延伸されると藤並-湯浅間は有鉄と紀勢西線の2本の線路が並ぶこととなり、1944(昭和19)年には有鉄の藤並-湯浅-海岸間の線路が不要不急として撤去の憂き目に遭います。
終戦後の1950年に開始された藤並-湯浅間の乗り入れはその歴史的経緯を踏まえたものでもありましたが、有鉄の主目的だったみかん・木材輸送はトラックに切り替わり、1992年には乗り入れが終了しました。
車両は有鉄からの片乗り入れで、機械式気動車キハ07や富士急行から譲受した3両のキハ58(うちキハ58003は両運車)などが使われていました。
直通運転終了後、廃止直前の有田鉄道の様子はよんかくサイトのこちらでご覧いただけます。

さて、次も同じページなんですが、どこが直通運転なのかおわかりでしょうか?
直通運転よりも天王寺発名古屋行特急「くろしお2」の方に目が行ってしまいそうですが(笑

天王寺発新宮行急行「きのくに2」に、南海本線難波発の「きのくに」を和歌山で併結します。
南海「きのくに」は自社発注の2エンジン車キハ5500・5551形を運用。南海線内は特急として運転し、和歌山市からは国鉄急行となって紀勢本線へ乗り入れていました。
運転開始当初、南海線内は全車指定席だったため座席指定料金が必要でしたが、この時刻表時点では全車自由席となり乗車券だけで乗れるようになっていました。

南海線内を電車並みの速度で走るために導入した2エンジン車も冷房用発電ユニットを積むスペースがなく、かと言って高性能大出力車を導入する余力もなく、最期まで非冷房のままで走り続けました。
よんかくは少年時代、南海線内を「きのくに」が2連で走行しているところを何度も見ていますが、一般車両の冷房化が急速に進む中、非冷房で窓を開け放ちエンジン音と排気煙を上げて走る旧型気動車は乗っている人が可哀想になる代物で、いつしか座席指定料金を取らなくなった理由がわかる気がしたものです。
南海車両の南紀直通は1933年以来の歴史を持ち、気動車による「きのくに」直通は1959年にスタート。紀勢本線新宮電化後は特急「くろしお」増発に伴う「きのくに」廃止で1985年に直通運転も終了しました。
なお、先に出た島原鉄道のキハ55形・キハ26形と南海のキハ5500・5551形は、国鉄キハ55系ベースという点でいわば兄弟分にあたる車です。ただ、島鉄キハ26形は1エンジンが幸いして早期に冷房化され、最期まで国鉄急行併結用車として活躍しました。

次回は「直通運転その2」へと乗り入れてまいります。