硬券畏る可し 〜国鉄編〜

鉄道の「きっぷ」・・・手売りの紙券から始まって自動券売機、磁気券の自動改札、ICカード、モバイルチケット、クレカタッチ、顔認証…と、もはや乗車券の実体すらなくなってしまったところまで時代は進んできているのでありますが、今回はぐいっと時を巻き戻して紙の乗車券、その中でもボール紙というか厚紙を使用した「硬券」を少し見ていただきます。

現在も硬券を使用している鉄道事業者は案外多く、旅行者や愛好家向けに硬券を作り続けている会社もあれば自動券売機などを持たず硬券オンリーの会社などさまざまあるわけですが、最初に常備の硬券を駆逐してしまったJRの前身・国鉄の硬券から、とりとめもなく並べていきたいと思います。
特に珍品と呼べるようなものはありませんので、あまり期待なさらぬよう(汗

まずは入場券から。なくなってしまった駅もちらほら。
鉄道管理局ごと?に若干記載事項の差異があるものの様式はだいたい同じなので、絵的にはさほど面白くはありません。この駅に来たぞという証拠物件としての価値はありますが。

つづいてオーソドックスな金額式乗車券。
名松線伊勢奥津駅と、今は信楽高原鉄道となった信楽線信楽駅発行のものです。日付が同じなので、たぶん青春18で乗り回っている途中で記念に購入したものと思います。

裏面にはナンバリングが付されています。

下は、加古川線野村(現・西脇市)駅から分岐していた旧・鍛冶屋線の終着・鍛冶屋駅発行のものです。
現地写真の一枚でも撮ってなかったのかと今更ながら後悔しています…

硬券は出札窓口にある、金額別または行き先別に区分された乗車券収納箱に収められています。
出札口で行き先の駅名を告げてお金を差し出すと、駅員氏が乗車券収納箱から瞬時に該当のきっぷを取り出しダッチングマシン(DatingMachine)に通して日付を印字し、滑り出すように渡してくれます。家族全員分など複数枚注文しても、乗車券箱から枚数分を取り出してカチャンカチャンと日付を打ってスッと窓口に出てくる、その動作の滑らかさはまさに職人技と言えるものでした。

乗車券収納箱とダッチングマシン、改札鋏(2022年7月19日@小坂鉄道レールパーク)

券の右側に斜線と「小」の字が印字されているのは小児断線と呼ばれるもので、この線にハサミを入れて切り落とすことによって小児用の券とします。
鉄道会社目線で言うと、小児券は切り落とす手間が増えて収入は半額になるわけです。

つづいては、着駅が明記された一般式乗車券です。国鉄の場合、主に100キロ超えの長距離きっぷにこの形が多かったようです。
記載事項が多くなるためか、金額式より縦幅が少し長いです。
100キロ超えのきっぷは途中下車可能なので「下車前途無効」の文字がなく、有効期限も複数日となります。

姫新線林野駅から帰宅する際に購入したきっぷです。
一般式乗車券は上のように、着駅がこの区間内にあることを知っていなければ出札できないきっぷも多く、駅名を聞いて瞬時に券を選択できる豊富な路線・駅名知識が窓口の駅員氏に求められることとなります。

下のように、小児断線ではなく赤字で「小」と印字された小児券が用意されているものもよく見られました。

ここからはよんかく自身が購入・使用したものではなく、一時期関東方面に住んでいた親戚から譲り受けた使用済みきっぷの一部です。
「鉄道好きやて聞いてたから貯めといたったで」と(←見透かされてた 笑

高崎線本庄駅発行の地図式乗車券と100キロまでの自由席特急券です。国鉄路線図がある程度頭に入っていたらビジュアルでわかりやすいのですが、そうでない人には関係のない駅名がたくさん書いてあるわけのわからんきっぷということになりそうです。平原駅は現・しなの鉄道、花輪駅は現・わたらせ渓谷鐡道の駅となっています。
しかし、このきっぷを見ただけでは、この人は本庄からどこまで行ったのかさっぱりわかりません。

こんどは深谷駅からの乗車券・急行券です。入鋏痕が王冠のような独特の形状をしています。
急行券は印刷が少しズレていますが、硬券にはありがちな現象でした。硬券は大きな板紙に数十枚分を印刷して裁断するのではなく、あらかじめきっぷの大きさに裁断された台紙を一枚ずつ印刷機に通して印刷していたため、紙送りがうまくいかずにズレたりすることもあったのでしょう。
深谷駅は本庄駅から2つ東京寄りの駅なので、同じ1000円区間でも着駅の範囲が微妙に異なっています。中央線飯田橋-四ツ谷間が連続で着駅となっているのが面白いですね。

さて、上の本庄駅発特急券は昭和57年12月、下の深谷駅発急行券は昭和57年10月となっています。
実は、両者の間の昭和57年11月15日に行われたダイヤ改正(上越新幹線開業)で、高崎線・上越線の急行列車の多くが特急「白根」「谷川」「あかぎ」に格上げという形で廃止されています。
ひょっとしたらこのきっぷの主は、それまで急行で行けてたのに特急(しかも停車駅が急行とあまり変わらない「新特急」の前身)に乗らざるを得なくなった…と密かにぼやいていたかも知れません。

次のは乗車券と急行券が一枚になっています。
裏面の赤ペンのチェックは、窓口締め時の売り上げの集計をしやすくするためにつけられる目印です。乗車券収納箱内の券は裏面を上向きにして収められているので、締め時に全ての券にチェックを入れておけば、翌日の締めの際にはチェックがない券(その日に売れた券)についてだけ集計すればよいことになります。
逆に言えば、裏面にチェックの入ったきっぷはその日初めて(あるいは何日かぶりに)売れた券です。

日付の年は「58」です。上記のように高崎線の急行列車が間引かれた後ではありますが、新前橋を通る急行として「佐渡」「ゆけむり」「よねやま」など数本がかろうじて残っていました。
これら昼行の急行列車は、昭和60年3月14日改正で「新特急」への一斉格上げにより高崎線から姿を消すこととなります。

この人はいったいどこをウロチョロしてるんでしょうか(笑
旧型国電車両が119系に置き換わりつつある頃の飯田線では、天竜峡・飯田発の急行「こまがね」が3往復設定されており、辰野で急行「アルプス」に併結されて新宿へ向かっていました。
当時の急行料金区分は50キロまで500円、100キロまで700円、150キロまで800円、200キロまで900円、201キロ以上1100円という刻みでした。

次は縁起物としてあまりにも有名な増毛(ましけ)駅から礼受(れうけ)駅への観光旅行記念きっぷ。
両駅とも、今は深川-石狩沼田間にまで短縮されてしまった留萌本線のかつての末端区間にありました。
悩める人々に入場券や乗車券がよく売れ、予土線半家(はげ)駅から増毛駅行のきっぷを作って旅行する人が相次いだりしましたが、収支の好転にはほとんど寄与せず、2016年の年末に路線ごと廃止となりました。

「毛が増えたとお礼を受けています。」とはなかなかの誇大表示ですが、昭和60年当時はバブル景気入口の右肩上がり期で、経済が回るなら何でもアリだったのでしょう。
なお、同時期の北海道内の硬券をよんかくサイト内「よんかく前史」のこちらにも数枚貼り付けていますので、あわせてご覧ください。

最後はこちらで。

風光明媚な恋路海岸へ再訪できる日を、よんかくも心から待ち望んでおります。