時刻表1977年9月号【直通運転その2】

【長野電鉄】
直通運転その2は、上野と長野電鉄湯田中を結ぶ急行「志賀」で運転開始です。
国鉄区間は妙高高原行急行「妙高」と併結されます。

車両は横軽協調対応の169系で、信越本線(現・しなの鉄道しなの鉄道線)屋代で3両を分割し長野電鉄河東線に乗り入れ、湯田中へと向かいます。屋代駅は1〜3番線が国鉄、4・5番線が長電専用で、湯田中行は屋代2番線に入線して客扱い及び「妙高」と分割ののち渡り線を通って長電に入り、上野行は長電方から渡り線を通って3番線で客扱い後、2番線に入線した「妙高」の後部に転線して併結していました。
湯田中行は3両のうち1両が指定席、上野行は全車自由席でした。おそらく指定席は国鉄からの直通客専用車両という位置付けで、長電線内だけ乗る場合は2両の自由席車利用となっていたのではないかと思います。

長野電鉄への直通運転開始は1962年。当時は高崎から先が非電化のため横軽対応気動車キハ57系での運転で、翌年の碓氷峠粘着新線開業・長野電化の直後に169系へ置き換えられました。

長電線内は特急扱いで、松代(廃止)・須坂・信州中野に停車します。
「上野から直通急行志賀号に乗車の時 連絡急行料金780円」は上野-屋代間の普通急行料金700円(201キロ以上)と長電内の特急料金80円の合算ですが、国鉄では「連絡急行券」として発売していました。長電の特急は国鉄的には急行と同格だということでしょうか。

なお、この時刻表時点の屋代-湯田中間は通票(タブレット)閉そく式だったので、線内特急や「志賀」は閉そく扱い駅を通過する際に通票の通過授受を行なっていました。長電の特急車両とは異なり169系は乗務員室直後の乗降扉にタブレット防護板(柵)が設置されていなかったので、通過授受の際はタブレットキャリアによる車体への衝撃を最小限にするため最徐行に近い速度で行なっていたものと思われます。
「志賀」については当ブログ内「長電いまむかし -むかし編-」でも若干触れていますので、そちらもご覧ください。
〔参考サイト〕北信濃ロマン鉄道「さようなら志賀号」

 

【大井川鐡道】
次は東海道本線から大井川鐡道に乗り入れていた臨時快速列車です。

表頭の「行先」欄に大垣、名古屋、浜松・・・と並ぶ中、ぽつんと「千頭」がある違和感(笑
静岡発「奥大井」・浜松発「すまた」と、双方向から2つの快速列車が金谷から大鉄に乗り入れて千頭まで運転されています。ネット上の情報を総合すると、「奥大井」は1969年4月から1983年11月まで静シスの80系→113系、「すまた」は1973年10月から1984年9月まで名カキの113系でそれぞれ運転されていたとのことです。
前記の「志賀」もそうですが、観光地への直通運転は国鉄側のメリットが大きいからか国鉄車両の片乗り入れが大井いや多いようです。

2本記載されている千頭行「奥大井」のうち1407発は「8月27日から9月24日の土曜運転」で852発とは運転日が異なるので、各運転日とも1往復の運転ということになります。
定期列車は金谷-千頭間を急行が約60分、普通が約70分の所要時間であるのに対し、千頭行「奥大井」「すまた」は急行と同じ停車駅であるにもかかわらず70分以上を要しています。一般的に単線区間の臨時スジは定期スジより表定速度が遅くなりがちなんですが、それに加えて金谷での「転線」がさらに所要時間を延ばす要因となっていました。

大鉄と国鉄との間では直通旅客列車運転以前から貨物列車の乗り入れがあり、貨車の授受が行われていた関係で金谷駅構内は下図のように中線が2本ある独特の配線となっていて、国鉄から大鉄への乗り入れ列車は千頭方出発信号機が建植されていた中2番線に転線のうえ発車する運用となっていたようです。
なお、現在は上り2番線から大鉄方への渡り線は撤去され、JRと完全に切り離されています。

赤い線は大井川鐵道の線路(ネット情報をもとによんかく作図)

この転線方法については諸説あり、ネット上でも情報が錯綜していてどれが正解なのかよくわからない状況となっているのですが、諸説見た中でよんかくが最も有り得べきと考えた転線方法を記してみます。

静岡発「奥大井」は下り3番線ホームで客扱いののち係員の誘導でいったん名古屋方へ移動し、牧之原トンネルに突っ込んで中2番線に転線、そこで大鉄新金谷への通票を受け取り千頭方出発信号機に従い発車します。
時刻表上では静岡852発の「奥大井」が金谷925→家山959と、定期急行列車がおおむね25分程度で走るところを34分も費やしているのは、この転線作業によるタイムロスゆえでしょう。
逆に千頭発「奥大井」は大鉄方からそのまま上り2番線ホームに入線して客扱いと通票の返却を行い、エンド交換のち東京方へ発車して行くのでさほど時間はかかりません。

一方、浜松発千頭行「すまた」は菊川1001発→金谷1013発となっています。他の列車を見ると菊川→金谷は9〜10分ですから、上り2番線ホームでの客扱い、乗務員交代、通票受け取り等の時間を加味すれば、この金谷発時刻は妥当なところです。
しかしながら、当時の配線図を見ると上り2番線には千頭方への出発信号機がありません。となると、「すまた」は発車時刻になると東京方へ移動し、千頭方出発信号機がある中2番線にいったん転線してから発車していたと推察するしかありません。金谷1013→家山1046という所要時間も、転線作業のロスタイム込みと思えば合点はいきます。
中2番線の千頭方出発信号機は貨物列車が日常的に使用していましたが、大鉄への分岐に最も近い上り2番線の千頭方出発信号機は「すまた」ぐらいしか使用機会がないとして設置が見送られたのでしょうか。ただ、そのせいで非常にムダな動きを強いられている感は拭えません。
反対に、千頭発浜松行「すまた」は上り2番線ホームに入線して客扱いと通票の返却を行なったのちに係員の誘導で東京方へ移動して中1番線に入り、下り出発信号機に従い名古屋方へ発車していました。
この浜松行「すまた」は金谷1229→菊川1300と31分も要している一方、金谷を直後の1231に発車する2157Mは菊川1240と「すまた」より先着しています。「すまた」が金谷で転線している間に2157Mが後着先発しているものと思われますが、いかに臨時列車とはいえ転線中に普通列車に抜かれる快速乗客の気持ちはいかなるものか、察するに余りあります。

ちなみに、大鉄の金谷-新金谷間では現在もスタフ閉そく式を施行していますが、ピストン運転しかできないスタフ閉そく式では臨時列車を割り込ませることがほぼ不可能なので、当時は通票(タブレット)閉そく式だったと思われます。
〔参考サイト〕懐かしい駅の風景~線路配線図とともに「金谷配線図」「快速「奥大井」「すまた」号」

 

【名古屋鉄道・富山地方鉄道】
直通運転シリーズの大トリは、これを語らずして直通運転は語れない?名古屋鉄道・国鉄・富山地方鉄道の3社線直通列車「北アルプス」をはじめとする、富山地鉄への直通列車群です。
いきなり余談から入りますが(汗)、この時刻表の犬山線特急は「北アルプス」以外すべて犬山遊園発着となっています。犬山遊園駅には折り返し設備がなく全列車犬山橋を渡って新鵜沼まで行っていたはずなので、なんとも不思議です。
また、ところどころに「明治村口」の名が見えますがこれは現在の小牧線羽黒駅で、博物館明治村へのバス乗換駅だった約20年間、犬山から1駅間だけ特急が乗り入れていました。

「北アルプス」1977年当時の使用車両は名鉄キハ8000系。1965年に準急「たかやま」(1966年から急行)として神宮前-高山間に投入され、1970年の富山地鉄立山への乗り入れ開始とともに「北アルプス」と改称、その後の国鉄側の営業政策により特急へと格上げされます。同形式は準急時代から冷房と転換クロスシートを備えた豪華車両で、特急に格上げとなってもさほど遜色のない接客レベルを保っていました。
名鉄犬山線犬山遊園駅を出て犬山橋を渡り、新鵜沼駅構内の分岐から「鵜沼連絡線」へ入って右方への急カーブを行くと、ほどなく鵜沼駅構内で高山本線と合流します(乗務員交代は美濃太田駅)。鵜沼連絡線が設置される1972年以前は、貨車の出入りのための渡り線から鵜沼駅へスイッチバックし、客扱い後再びエンド交換して富山方へ出発していました。

名鉄から高山本線への乗り入れは1930年代以来の歴史を持ち、当初は名岐鉄道(現・名鉄の前身のひとつ)の電車を鵜沼駅で蒸気機関車が引き継いで下呂まで牽引していたそうです。国鉄名古屋-鵜沼間47.6キロに対し新名古屋(現・名鉄名古屋)-新鵜沼間34.1キロと名鉄経由の方がショートカットとなり、自社沿線からの利用も十分見込めることから、高山本線直通運転は名鉄として力を入れていました。

「北アルプス」は飛騨古川まで6両編成で、立山直通運転日は富山方3両が延長運転という形をとっていました。指定席マークが四角で囲まれているのは「指定券は停車駅で発売」という意味で、あくまで名鉄の列車なので指定席をマルスで扱う必要がないとの判断でしょうか。もちろん、国鉄線内だけ乗車することも可能でした。
左側の赤枠内では、名古屋発富山行急行「のりくら1」に宇奈月温泉行「うなづき」が併結されています。このほか、名古屋発金沢行夜行急行「のりくら6」には立山行「むろどう」が併結され、名古屋方面から富山地鉄には都合3本もの直通列車が設定されていました。
「うなづき」「むろどう」はいずれも勾配対応のため2エンジン車キハ58とキハ28の2両編成です。

実は、高山本線は上りダイヤの方が面白いのです(笑

神宮前行「北アルプス」もさることながら、右の赤枠では富山で「のりくら6」に「うなづき」「むろどう」をダブル併結しているのがすごいですね。その左隣の834D富山発名古屋行普通列車(岐阜から快速)も地味にジワってくる列車です。また、右端の夜行急行「のりくら7」は富山・岐阜と2回方向転換します。

さて、1983年11月に立山直通運転が終了し飛騨古川止まりとなった「北アルプス」は、1985年3月改正で4両編成に減車のうえ飛騨古川-富山間の運転が復活。のち運転区間が新名古屋-高山間に短縮となり、1991年3月改正で新車キハ8500形が投入されますが、2001年10月改正で列車廃止となりました。
なお、よんかくサイト非自動写真館「名古屋鉄道」のこちらに、キハ8500形時代の「北アルプス」乗車記を少しだけ掲載しています。

4両編成となった「北アルプス」(保育社カラーブックス「名鉄」から)

名鉄・国鉄からの乗り入れ列車の途中停車駅は、立山行が寺田・五百石・岩峅寺・有峰口、宇奈月温泉行は寺田・上市・魚津・電鉄桜井です。
ちょうど時刻表のページ綴じ目で見えませんが、立山-宇奈月間の「アルペン特急」のうち立山1538発-宇奈月1701着及び宇奈月910発-立山1037着の1往復には「北アルプス」間合いのキハ8000系が充当されていました。キハ8000系は名鉄線内でも間合いに豊橋行特急として走るなど、なかなか多忙な車だったようです。

富山地鉄には名古屋方面のほか、大阪発急行「立山」の一部が立山と宇奈月温泉に乗り入れています。

「立山」はクハ・サハ451系とモハ471系からなる12両編成で、うち富山方3両が富山地鉄に乗り入れ。北陸本線は交流電化、富山地鉄は直流電化のため、富山駅構内の両線の渡り線には交直デッドセクションが設けられていました。
直通「立山」は1982年秋に運転終了しましたが、1990年には「雷鳥」併結のDC特急「リゾート立山」が富山地鉄への直通運転を再開、1995年からは681系「サンダーバード宇奈月・立山」が走り始めます。しかしながら、インバータ制御の681系は地鉄線内でたびたび電圧降下を引き起こし、モーター性能が勾配路線と噛み合わず空転や故障が多発するなどの問題が顕在化、利用率の伸び悩みも相まって1999年11月に運転を終了します。
それ以来、富山地鉄と他社線との直通運転は行われていません。

軌間(と会社間の利害)さえ合えばレールがつながっている限り乗り入れていける直通運転は、公共交通機関の宿命である乗り換え・乗り継ぎの手間と時間を軽減するサービスとして大いに歓迎されてきました。
現代の直通運転は複数社線をあたかも一本の路線のごとくスマートに走り抜けていくものがほとんどですが、昔日の直通運転には、鉄道という融通のきかない交通手段をなんとか世間の嗜好に合わせようとする並々ならぬ知恵と意欲が漲っていたような気がするのです。

時刻表1977年9月号シリーズは以後不定期運転となりますが、今後もいろんな切り口でお届けしていく予定です。