長電いまむかし -むかし編-

(1990年8月1日撮影)

むかし、と言ってももちろんそんな太古の昔ではないのですが、それでも30年以上前のことになります。

大阪から夜行急行「ちくま」で長野入りし、信州・関東方面をぐるぐる回る旅程の最中に長野電鉄の初乗りを組み込みました。
私の若い頃の鉄旅は非常に回りくどいものが多く、この日も朝の長野駅からスタートし、当時運行していた屋代線(正式には河東線)の屋代から篠ノ井、塩尻を経由して上諏訪に至り、諏訪方面のJRバスに乗り回って小諸から特急「あさま」で長野に戻り、河東線木島、湯田中で長電完乗という、今やれと言われても絶対無理(経路的にも体力的にも)なルートをたどっています。
実は、この旅行中にはここへも訪問しています。

第1ランナーは長電オリジナル車両のOSカーで、大手私鉄に多いタイプの20メートル4ドア車でした。
前面の方向幕は上下2段の珍しいもので、見えにくいですが上段は「各駅停車」の表示です。

須坂で下車し、屋代線に乗り換えます。
オリジナル特急車・2000系がヘッドマークも誇らしげに快走しています。
ホームの先にはお役御免となった発条転轍機標識やら信号・転轍てこが大量に置かれていました。

もともとは、河東鉄道を起源とする屋代-須坂-信州中野-木島間の河東線が本線格で、長野と湯田中へ向かう路線はそれぞれ長野線、山の内線という後発組でしたが、のちに長野-湯田中間がメインルートとなり、河東線のうち信州中野-木島間は2002年に廃止、同時に屋代-須坂間は屋代線と改称され、こちらも2012年に廃止となりました。
歴史的に見れば長野-湯田中間は長野線・河東線・山の内線の3線にまたがるのですが、現在は全線通じて長野線となり、河東線の名称は消滅しました。

屋代線1500系電車@須坂駅

須坂駅は5番線まである大きな駅で、駅舎から最も遠い1・2番線が長野方面、3番線が湯田中方面と駅全体で見ると右側通行となっていて、屋代線(河東線)は駅舎に最も近い4番線から発着します。
線形を見れば、屋代線は直進で須坂駅へ到達しているのに対し長野線は急カーブを描きながら進入しており、こういうところにも両線の関係が現れているように思えます。

屋代線は屋代駅の一番東側5番線に発着

終点の屋代駅はJR信越本線(現・しなの鉄道線)との接続駅です。
かつては上野からの湯田中行急行「志賀」がこの駅から長野電鉄に乗り入れていて、1982年の列車廃止までキハ57や169系電車が線内を走る姿が見られました。

急行「志賀」の乗り入れがあった1977年9月の時刻表

なお、通票(タブレット)閉そく式だった長野電鉄の自動信号化・CTC化は屋代線が1983年、その先の須坂-湯田中間が1980年なので、この時刻表時点では「志賀」を含む優等列車の通過駅で通票の通過授受がバシバシ行われていたことになります。
何でもかんでも「昔は良かった」とは言いませんが、長電線内での国鉄車両の通票扱いの様子は、時代を巻き戻してでも見たかった光景です。

行先案内に「長野」がないのは信越本線への忖度?

ここからは最初に書いたとおり、しばらくJRとJRバスに浮気をして、17時ごろに再び長電長野駅へ舞い戻ってきました。
長野からの木島行は長電カラーに塗り替えられた元・東急の青ガエル5000系です。
この顔も最初は物珍しかったのですが、旅行のたびにあちこちの地方私鉄で見かけるのでさすがに食傷気味でした。

信州中野-木島間は「木島線」と通称されていましたが由緒正しき河東線の終端部で、千曲川を挟んでJR飯山線と並行していました。
木島駅のひとつ長野寄りの信濃安田駅は飯山駅とわずか1kmほどしか離れておらず、もし木島線が今も残っていれば湯田中方面と北陸新幹線との連絡ルートに…というのは甘い考えでしょうか。まぁ長野に出るほうが便利やわな

折り返して信州中野で湯田中行に乗り換え、全線完乗です。
湯田中に着くまでに日はとっぷりと暮れ、車窓を眺めるのもままなりません。

湯田中駅は40‰の急勾配を登り切ったところに位置し、道路配置の関係でそのままホームを作ると長野方の終端部が勾配にかかってしまうことから、平坦なホームを設置するために構内がスイッチバック式となっていました。3両編成以上の到着列車はいったん駅を少し通り過ぎ、ポイントを転換後に戻ってホームに入ります(出発列車は逆の手順)。2両編成の列車はそのままホームに入れるのでスイッチバックしません。
このスイッチバックは2006年8月いっぱいで解消され、湯田中駅は現在の1面1線構造となります。
元・小田急ロマンスカー導入にあたり、高運転台からのバック時の後方確認に難があることが大きな理由だったそうです。

自分で組んだ旅程とは言え、信州中野-湯田中間が夜間にかかって残念でしたが、この区間の乗り直しはちょうど30年後の「いま編」にまで持ち越されることとなります。

細かいことは言いたくありませんが、昭和2年発行…

長野に戻った後は、夜行急行「妙高」で上野に向かいました。旅メモには「妙高は2割程度の乗り、気の毒なほど空いていた」との故レイルウェイライター氏チックなコメントがもそもそと記してありました。
東京に着いてからは京葉線、武蔵野線、横須賀線、横浜線、相模線、伊東線、身延線を経由して甲府で泊まっています(←若かったなぁ自分…