ネ part4

かつての夜行普通(鈍行)列車には、僅少ながら寝台車を連結している列車がありました。

私の知る1970年代後半あたりでは「からまつ」(小樽・釧路間)、「南紀・はやたま」(天王寺・新宮間)、「山陰」(京都・出雲市間)、「ながさき」(門司港・長崎間)が、10系の3段式B寝台車を連結していました。
さらに遡れば、時刻表1961年10月号・山陰編に登場した大阪発大社・浜田行には1等寝台Cタイプが連結されていましたし、寝台車付き普通列車はこのほかにも走っていたかもしれません。
これらの愛称名は、マルスで寝台券を販売するのに必要ということで1974年に4列車一斉に命名されたものなので、列車というより寝台車の愛称名です。マルス化以前の寝台券は、主要停車駅のみで手売りされていたようです。

ちなみに、part1からよく登場している「10系寝台車」の外観写真をよんかくサイトのこちらのページに載せていますのでご覧ください。 (PR)

それでは、上記4列車について、時刻表とともによもやまってみたいと思います。

からまつ

交通公社の時刻表1977年9月号(以下同じ)

1950年代から小樽・釧路間を結んでいた411・412列車が前身で、古くから寝台車が連結されていましたが、寝台券のマルス化に伴い「からまつ」と命名。
釧路方からハザ4両(釧クシ)+ハネ2両(札サウ)+ユニ+ニ2両という混合列車チックな編成で、ハネ2両のうち1両は池田→釧路間回送扱い(サボも池田行)という変わった運用が行われていました。牽引機の性能と列車速度の関係で換算両数を減らすための措置という説があるようですが、それがなぜ池田→釧路間だけなのかなど、はっきりしたことは不明です。
釧路行「からまつ」は富良野での34分停車中に小樽行と行き違います。

当時の札幌-釧路間には、ロネ1両とハネ6両を連ねた急行「狩勝3・4号」も走っていて、「からまつ」と合わせていかに寝台需要が旺盛な区間だったかを窺い知ることができます。
1980年10月改正時、その「狩勝」に吸収される形で廃止となりました。

南紀・はやたま

この「南紀」という列車名は1978年10月改正で名古屋-紀伊勝浦間の特急列車名に召し上げられることとになり、代わりに熊野三山のひとつである熊野速玉大社から採られた「はやたま」を名乗るようになります。
編成は名古屋方からハザ4両+10系ハネ2両(天リウ)で、和歌山までゴハチことEF58(竜)が牽引します。普通列車とはいえ串本あたりまでは快速運転で、特に天王寺・和歌山間ノンストップは阪和線ユーザにはこたえられない快感なのではと察せられます。

編成は竜華区(現在の関西本線久宝寺駅付近)から天王寺へ回送され、当時あった関西線から阪和線地上ホームへの急勾配の渡り線を推進で押し上げ、頭端式の9番線から発車していました。寝台車は2両となっていますが、「はやたま」改称の前後あたりで1両に減車されました。
和歌山市からもハザ+ニの2両編成が出ており、和歌山で併結されます。和歌山では天王寺編成を牽いてきたゴハチが一旦離れて転線し、和歌山市編成を迎えに行って天王寺編成の名古屋方に連結するという豪華な??入換作業が行われていました。

ハネは40分停車の新宮で切り離されます。寝台車連結区間がわずか262.0キロということもあり、天王寺2240→新宮510、新宮2240→天王寺500と上下とも寝台利用時間が比較的短い列車でした。私などはせっかくの寝台車を早朝5時に追い出されるのはイヤやなぁと思ったりするのですが、それでも2両連結するほどの寝台需要があったのはちょっと驚きです。
1984年1月にハネが外されると当然ながら「はやたま」の名称は使われなくなり、しばらくは無名の夜行列車として走り続けますが、この列車の大口需要家であった釣り客のクルマへのシフトが進んだこともあって運転区間が新宮止まりから紀伊田辺止まりへと短縮されたのち廃止となりました。

 

「山陰」という列車自体は何回も乗っていますが、寝台車利用は小学生だった弟との山陰旅行途上の1回きりで、寝台券に(小)と記載されているのは弟の寝台券を譲り受けたからです。もっとも、寝台料金は大人・小人とも同額なので意味のない記載ではありますが。
この時の編成は出雲市方からハザ6両(米イモ)+ハネ(大ミハ)+ユニ数両で、他の日には米ハマ車が入っていたこともありました。私が乗っていた頃は終始DD51(米)が牽いており、悲運の機関車DD54はすでに退役した後だったと記憶しています。

当時、山陰本線京都口を走る夜行列車は「山陰」と大阪から福知山線経由で大社線大社とを結ぶ「だいせん2」、そして東京からのブルートレイン「出雲」浜田行と「いなば」米子行がありました。このうち「だいせん2」は前回part3で触れた「だいせん5」の一世代前の列車で、10系のロネ・ハネ・ハザ+スロ54という旧型客車で固めた古典的な編成でした。
「だいせん2」は福知山では出雲市行「山陰」停車中に後着・先発するため、京都方面から「山陰」で来た人が福知山で「だいせん2」に乗り継げば一足早く目的地に到着できるダイヤとなっていました。逆に大阪方面から「だいせん2」で来て福知山で「山陰」に乗り継ぐ需要もそこそこあったようで、上の寝台券はまさにその乗り継ぎで使用したものです。

「山陰」ハネ車@出雲市  星霜を重ねた車体には凹凸や補修跡が目立ち、痛ましい

「だいせん2」の出雲市着が651なのに対し「山陰」は950と3時間も遅く、普通列車ゆえ寝台の解体もされないので、ゆっくり寝ていられる乗り得寝台でした。逆向きは出雲市1909→京都525なので「南紀」と同様、朝が苦手な向きにはキツい寝台利用となったことでしょう。
江原での「山陰」同士の乗り継ぎなどムチャをした若き日の思い出の列車でもあります。

ながさき

「ながさき」は、諫早にある遠縁の親戚宅を訪れた帰りに門司港行に乗ったのが最初で、このときは「ながさき」同士が行き違う肥前山口(現・江北)の武雄温泉方にある北方という小駅で長崎行に乗り継ぐ荒技を駆使して、再び長崎方面へ戻っています。
この寝台券は、その翌年の夏休みに敢行した九州内国鉄完乗旅行の際に使用したものです。門司港着は744と大都市圏のラッシュアワーからかろうじて逃げ切るダイヤで、門司港まで乗り通した寝台客は私ひとり、座席車も数人程度でした。

門司港-長崎間というと鹿児島本線と長崎本線でスッと行ける感じですが、上のダイヤのとおりこの列車の経路は佐世保線と大村線そして長与回りの旧線経由という、なかなかユニークなものでした。ただ、そこまで大回りしても266.7キロという寝台車利用距離は「南紀」とどっこいどっこいの短距離と言えるでしょう。
編成は長崎方からユ+ニ(門モコ)+ハネ+ハザ6両。ハザの後部2両は佐世保発着編成(門モシ)で、早岐で長崎編成(門サキ)との分割・併合があり、門司港行の佐世保編成は早岐043着143発と1時間も停車していました。
牽引機は門司港・鳥栖間がED76(鹿)、鳥栖・佐世保間が同(門)、早岐・長崎間がDD51(早)だったはずです。←やや自信なし
長崎本線と佐世保線は電化されていたものの、電車列車は特急「かもめ」「みどり」と早朝夕刻の長崎・佐世保-門司港間快速1往復のみで、他はすべて気動車か客車。客車列車と貨物列車は電気機関車牽引なんでしょうが、せっかく電化してるのにもったいないなぁと思ったものでした。
1984年1月限りで運転終了。

  

そもそも、普通列車に寝台車をつなぐ必要などあったのでしょうか?
普通列車の寝台の寝心地は、夜中にちょこちょこ停まる分、決して良いとは言えないものでした。座席車で座っていても、車両の性能や機関士氏の技量?によって発車・停車時のショックが大きい場合があり、これ寝台車の人も寝られへんやろなぁと感じることもよくありました。
ただ、当時の夜行鈍行の座席車は依然オハ33やスハ43のような旧型車ばかりで、非冷房かつ現代人の体格に合わない堅苦しい座席など居住性はすでに時代遅れの境地だったのに対し、たとえ10系であってもちょこちょこ停まっても、狭いながらも自分だけのスペースが確保され横になれる冷房付きの寝台車は夜道を往く人々のちょっとした贅沢(と少しの優越感)を叶えるアイテムであり、そういった移動手段を楽しむ余裕のある時代でもあったのかなとも思えるのです。
なかなかうまく表現できませんが・・・

次回は、これまでに書ききれなかった物事や載せるのを忘れてた(笑)写真を落穂拾い的に綴って「ネ」完結編とする予定です。