古アルバムから その2
(「古アルバムから その1」のつづき)
前回ざっと40数年前の写真をご覧いただきましたが、今回はちょっと時代が下がります。

富士急行(現・富士山麓電気鉄道)大月駅。背景のポコンとした山(岩殿山)がランドマークですね。
2000(平成12)年7月の富士急初乗り時の撮影で、富士急ハイランドでは5000形電車のヘッドマーク「トーマスランド」の開業間もない頃だったように思います。wikipediaによるとこの5000形は2019年の廃車までほぼ一貫してトーマスランドのラッピング車だったようで、いちおう鉄道関係施設の広告塔として働き続けられたのは鉄道車両冥利に尽きるといったところでしょうか。

終点・河口湖駅。
当時、中央本線から乗り入れの115系の姿が面白くて撮りました。向こう側にもう1編成停まっているように見えます。

これも同じく2000年7月、東武日光線の確か栃木駅だったと思います。右手に見えるプラットホームぽいものは両毛線の栃木駅ではないでしょうか。
この時の旅程の記録は残っていないのですが、以前東武宇都宮駅まで乗ったことがあったので、たぶん青春18で乗り回っている途中に日光・鬼怒川方面の初乗りを試みたものと考えられます。←記憶が薄いので極めて客観的なコメント

ここは上と同一日に鬼怒川温泉駅より先、野岩鉄道・会津鉄道に乗った時のもので、キャプションがないのですがたぶん会津田島駅で、4番線でトロッコ車両が昼寝しているところからしても間違いないでしょう。
折り返し会津若松方面行となる会津鉄道列車の入線シーンを撮ったものと思います。
場所は変わって、名古屋鉄道犬山線・犬山遊園-新鵜沼間に架かっている犬山橋を犬山遊園駅側から。

かつて鉄道・道路併用橋だった犬山橋が道路橋と分離し鉄道専用橋になったのが2000年3月、その直後に訪れた時の写真です。まだ何かの作業をしているようで、併用橋の頃の面影が色濃く残っています。
併用橋時代の犬山橋の様子はこちらで → YouTubeよんかくチャンネル「鉄道道路併用橋の頃の犬山橋」
普通鉄道の併用橋はここが最後だったのではないでしょうか。よんかくも何回か電車で通りましたが、列車の直前にはみ出したり横切ったりするクルマがあったり。7000系パノラマカーなんかは犬山遊園駅を出ると同時にミュージックホーン鳴らしまくりで、電車に乗ってる分には楽しかったですけど(冷汗

新しい道路橋から見た犬山橋。こうやって見ると鉄道専用橋として何ら違和感はなく、むしろクルマと並走していたのが信じられない感じです。

新鵜沼駅側の旧道路の取り付け部のところに立って撮っています。併用橋の頃はこのあたりが鉄道と道路の分岐地点で、道路が直線的に犬山橋へ進入していく線形でした。

中央西線の名古屋-中津川間を走っていた「セントラルライナー」専用車両313系8000番台。既存の快速列車の一部を置き換える形で1999年12月から走り始めた転換クロスシート車で、名古屋-多治見間から乗車する場合は310円の乗車整理券(座席指定券)が必要でした。
セントラルライナー運転終了後は神領区にしばらくいたのち静岡区へ転属し、ロングシート車ばかりで悪評高かった東海道線の静岡地区で活躍中とのことで、何よりです。

現在は養老鉄道となっている近鉄養老線の大垣駅です。今もそうですが桑名-大垣間と大垣-揖斐間で系統分離されています。
現在の近鉄標準色マルーンレッド+白帯以前の、やや深い色調のマルーン1色でした。一方、阪急マルーンはこれよりも栗色というか茶色が勝っている気がします。
またまた場所は変わって、国鉄天王寺駅。

1982(昭和57)年8月、台風10号による葛下川の氾濫で関西本線(今の大和路線区間)王寺駅構内が水没し、101系電車6連×10本など100両近い車両が床上浸水のため使えなくなる事態となりました。最初は日根野区の阪和線用車、淀川区の片町線用車、果てはどこかの気動車まで動員してなんとか回していましたがどうにも足りず、ちょうど首都圏で201系に押し出されて廃車予定だった大量の101系が応援に来てくれた時の一コマです。黄色の101系は中央総武緩行線から来たというネット情報もありますが、写真の車両の所属表記は「西ナハ」東京西鉄道管理局中原電車区なので南武線の車でしょう。
関西線の101系はウグイス色だったのに加え、近畿圏内の国鉄では福知山線宝塚電化まで「黄色い電車」が走った実績がなく、「関西線」のステッカーを前面と乗降扉上部に貼っていたものの戸惑った人が少なからずいたものと思われます。それにしても見慣れない黄色い電車に天王寺鉄道管理局独特の書体の方向幕が意外とフィットしている感がありますな(笑
こちらのバーミリオン101系も応援車ですが、向こう側に停まっている環状線と見分けがつかなくなるので、関西線ステッカーと共に黄色い前面帯が入れられています。

所属表記は確認していませんでしたが、写真をむりやり拡大するとかろうじて「西ムコ」と読めるので、武蔵小金井区の中央線快速用車ということでしょう。その他いろいろな所から動員された車両は色とりどりで、黄・バーミリオン・水色の3色編成なども走っていたりしました。
しかしながら、遠路はるばる応援に来ていただいてこんなこと言うのは大変失礼なんですが、廃車寸前の車両を大量に受け入れるところなどやっぱり天鉄局って「車両の墓場」なんやなぁ…と妙に得心したものです(汗
最後は山陽本線支線・通称「和田岬線」(兵庫-和田岬間)の国鉄時代。朝夕しか運転されない通勤輸送特化型の線区です。

兵庫駅の和田岬線ホームで発車を待つオハ64の6連で、これも1980年代初め頃の撮影かと思われます。前後にDE10を従え、プッシュプルで運転されていました。
両駅のホームが同じ側にあるので乗降扉も片側にしかなく、ラッシュ時対応として中央部に幅広の外吊扉を設置し車内は座席を全て取り払って短いロングシートが1台だけという、和田岬線専用に改造された車両です。

当時は平日11往復、休日2往復

兵庫駅へ折り返して行った直後の和田岬駅ホーム。当時は有人駅でした。
和田岬線はスタフ閉そく(種別◯)で、見えにくいですが兵庫方に出発信号機があり、駅員氏がスタフ授受と信号操作を行なっていました。

その後1990(平成2)年10月改正で客車から気動車による運転に変更され、オハ64と同じく鷹取で和田岬線仕様に(魔)改造を受けたキハ35+キクハ35のユニットを投入。「キクハ」とは珍しい形式ですが、和田岬線ではオーバースペックとしてエンジンが撤去された車両で、平日は3ユニット6連で運用されました。
気動車時代の和田岬線はこちらで → よんかくサイト非自動写真館「和田岬線」
現在の和田岬線は電化され自動閉そくとなり、往時を偲べるものはほとんどなくなったようです。