AMARUBEへの道 1
1982年に撮影した山陰本線の写真を少しご覧いただきます。
当時小遣いの乏しかった高校生ゆえ、ポケットカメラの劣悪画質はご容赦ください(汗
嵯峨嵐山(旧・嵯峨)-亀岡間の複線電化(1989年3月)に伴う移転前の保津峡駅。
現在は嵯峨野観光鉄道のトロッコ保津峡駅となっていますが、旧線時代は2面2線の交換可能駅でした。
おおむね京都-福知山間以内の普通列車(鈍行)は気動車、それを超える長距離鈍行は客レという分担がされていました。全国的にキハ40や47の配置が完了し、キハ20系などの旧型気動車の淘汰が急速に進んでいた頃でもあります。
京都に向けて発車
京都発米子行「あさしお」
駅前の橋を渡り、保津川の対岸へ。
今のような観光客の姿もなく、両側に山の迫る渓谷は列車と保津川下り舟の乗客が見るだけの風景でした。
京都口から旧型気動車を追い払ったキハ47に乗るのが癪だった私は、客レばかり選って乗っていました。
気動車は新型なのに客車は旧態依然な老朽車両ばかりで、いろんな形式が混結された列車は編成美とは全く対極の存在でしたが、一本の列車でよりどりみどりの車両に触れる楽しみもありました。オハ35、スハフ42、オハ46、ナハ11・・・
それでもさすがに座席の背ズリが板張りのオハフ61729(米イモ)に乗り合わせた時には面食らいました。
1941年の落成時に木造車両だったスハフ61は、戦後に多度津で鋼体化
この日は保津峡近辺で写真を何枚か撮って帰宅。
この1982年という年は、現在の青春18きっぷの前身である青春18のびのびきっぷが発売された年でもあり、これを境に少年時代のよんかくの行動範囲は飛躍的に広がっていくのでありました。
銀河鉄道999へのオマージュ的?DL