列車の編成ご案内1977 〜九州3〜
今回は長崎本線・佐世保線とその周辺線区を巡ります。もちろん西九州新幹線の影も形もなく、長崎本線がメインルートの座に君臨していた時代のお話です。
特急「かもめ」「みどり」の基本形は肥前山口駅(現・江北駅)で解結を行う併結運転で、1往復だけ9〜12号車を肥前山口回転とする「かもめ」単独運転がありました。翌年1978年10月改正ではこの肥前山口回転編成を延長運転する形で「みどり」を1往復増発し、晴れて?全列車併結運転となります。車両は南福岡区(門ミフ)の485系で、12号車グリーン車はボンネットスタイルのクロ481、1号車はクハ481の前面貫通形200番台が使用されていました。


もともと「かもめ」は京都-長崎・宮崎(のち西鹿児島)間、「みどり」は大阪-博多間(のち新大阪-熊本・大分間)特急の名称でしたが、どちらも1975年3月の新幹線博多開業によりいったん廃止、その翌年1976年3月の長崎本線・佐世保線電化とともに、国鉄初の「分割併結する電車特急」として再登板となったものです。

581系大分行「みどり」@大阪駅(1969年ごろ)
長崎本線・佐世保線の時刻表を見てみましょう。
当ブログのこちらで出てきた、最終列車兼一番列車の門司港-長崎・佐世保間夜行普通列車「ながさき」がトップバッター。佐世保線・大村線を大回りするため「ながさき」とは言いつつ長崎本線を走行する区間はそう長くありません。長崎編成は長崎方から長崎客貨車区(門サキ)の荷物車マニ36+郵便車オユ11+B寝台車オハネフ12+オハ47等4両、佐世保編成は門司客貨車区(門モシ)のオハ47等2両からなる最長9両編成でした。

急行列車もなかなか個性豊かで、各列車ともキハ28・58・65が運用されていました。
「かもめ」「みどり」に対応する長崎急行「出島」が5往復と佐世保急行「弓張」が4往復。「出島」+「弓張」併結便のほか、「出島」+「西九州」併結、「出島」+「ちくご」併結、島原鉄道車併結といったバリエーションがありました。
「出島」「弓張」は竹下区(門タケ)車と門サキ車の共同運用で、基本は1〜8号車が「出島」、9〜12号車が「弓張」と、行先ごとの車両数は「かもめ」「みどり」と同じ構成です。
「西九州」は別府-長崎・佐世保間を久大本線経由で結ぶ列車で、大分区(分オイ)の佐世保編成1〜5号車+長崎編成6〜7号車の7両編成。別府発の上り列車は鳥栖駅で博多発「出島2」8〜13号車の前部に併結され13両編成で長崎本線に入線し、肥前山口駅で1〜5号車の佐世保行と6〜13号車の長崎行に分割されます。つまりは「弓張」の1往復分を「西九州」が代行する形となっていて、例えば博多駅から「出島2」に乗って佐世保線方面へ行く場合は途中で「西九州」佐世保編成に乗り移れば、急行料金は同一列車とみなして通算で計算されます。

「ちくご」はグリーン車付き4連(門サキ)の編成で、熊本-長崎間を佐賀線(廃止)経由で走る、ひたすら有明海沿岸に寄り添う列車です。佐賀線は長崎本線と鹿児島本線をショートカットする路線で、JR移行直前の1987年3月28日に廃止されますが、諸富-筑後若津間の筑後川昇開橋(筑後川信号場)は鉄道ファンに名の知れた存在でした。筑後川昇開橋と筑後川信号場についてはよんかくサイト内「信号場応援団」のこちらで詳述していますので、興味がおありの方はぜひご一読を。よんかくサイトも長いこと更新してへんなぁ


さてこの「ちくご」、地味に見えますがなかなかクセ強ユニークな列車で、佐賀駅にて妙な併結分割を行っていました。熊本発「ちくご」は1656に佐賀駅着、そこで「出島5」と併結するともに「弓張4」を切り離すという、別れさせ屋みたいな役回りになってしまっています。
もちろん3列車の分割併結を佐賀駅で一度に済ませるという合理的な理由があるのですが、「弓張4」と別れても「出島5」+「ちくご」がその後を追い、しかも「出島5」には島原鉄道乗り入れの加津佐行(島鉄キハ26単行)も一緒だった・・・というところにドロドロした人間模様を重ねてしまうのはよんかくの性格の悪さゆえでしょうか(滝汗

なお、「西九州」と同様、「ちくご」に乗ってきた人が佐賀駅停車中に「弓張4」に乗り移って佐世保線方面に行く場合も急行料金は一本で通算できます。
長崎本線・佐世保線の電車列車は、特急以外は門司港-長崎・佐世保間の快速が夜の下り・朝の上りの1往復があるだけで、他はすべて気動車または客車列車です。普通列車用の交流電車を導入する費用対効果が見込めない交流電化区間はどこともそんな状況で、せっかく電化してるのにもったいないなぁと思っていたものですが、ここでは気動車急行がまだまだ気を吐いていた(気動車だけに)こともあって、急行編成を普通列車に使うなど車両運用面全体で考えると気動車の方が有利だったのでしょう。
筑肥線・松浦線(現・松浦鉄道)・大村線には博多-長崎間急行「平戸」。当時の筑肥線は博多駅を起点とする全線単線非電化かつ通票(タブレット)閉そく式の路線でしたが、1983年3月博多-姪浜間廃止とともに唐津駅までの電化・自動閉そく化・CTC化・福岡市交空港線との相互乗り入れ開始と、一気に路線環境が激変しました。
同時に唐津地区でも虹ノ松原-唐津間の新線開業と東唐津-山本間の廃止という路線変更がありました。1977年当時の筑肥線は東唐津駅から南進して山本駅で唐津線と接続したのち肥前久保駅方面へ向かうという線形でしたが、現在の筑肥線は唐津駅でいったん終わり、唐津線山本駅から再開という分断路線となっています。筑肥線の西半分・山本-伊万里間は現在に至るまで非電化で、通票閉そく式も1988年3月まで残存していました。

唐津方面の路線変更前(左)と変更後
当時の東唐津駅は松浦川に行手を阻まれるような形のスイッチバック式配線となっていて、駅に隣接して東唐津気動車区が置かれていました。よんかくは非電化時代の筑肥線に1回だけ乗ったことがあるのですが、筑肥線などで運用される車両の所属標記が「門ヒカラ」となっているのに驚いた記憶があります。所属区所の電略が3文字というのは後にも先にもここだけではないでしょうか。



「平戸」はもともと京都-佐世保間(佐世保線経由)の急行列車の名称で、1968年にその後継列車である新大阪-佐世保間急行「西海」の登場とともに、「九十九島(くじゅうくしま)」を名乗っていた当列車が「平戸」に改名されたものです。門サキのキハ28・58からなる全車自由席の6両編成で、東唐津駅で博多寄り3両を解結し東唐津-長崎間は3両での運転でした。筑肥線電化とともに運転区間が唐津-長崎間に短縮され、1988年4月に松浦線が第三セクター松浦鉄道に移行するのに伴い「平戸」は廃止となります。
次回は筑豊方面の各線区と久大本線などを見ていきます。