周遊券旅・よんかく式
若かりし頃、ワイド・ミニ周遊券や青春18きっぷを手にあちこち周遊してきたよんかくの旅の思い出を、少しばかり綴ってみたいと思います。
中学生の頃から鉄道旅を始めたもののほとんど記録を残してこなかったのですが、記憶に頼るだけではいずれ風化してしまうと焦ったよんかくが初めて旅記録をつけたのが、よんかくサイト「よんかく前史」として掲載している1985(昭和60)年8月の北海道旅行でした。この旅の目的は北海道内の国鉄(当時)の全線完乗、というと聞こえは良いのですが車中◯連泊などたいがい無茶苦茶やっていて、今から見返せばようこんなアホなことやってたなぁとまったく汗顔の至りであります。
というわけで、非常に恥ずかしながらなんですが、生々しい旅記録の一片をご覧いただきます。
さて、まずは「よんかく前史」のバックデータとなった旅記録の最初と最後の部分です。
若干の所感以外はひたすら事実のみを淡々と書いています。もちろん列車に揺られながらここまで整然?と書けるわけがなく、旅行中に書き溜めた走り書きのメモを帰宅後に清書したものです。
文字ばっかりで恐縮ですが、読める範囲で読んでいただければ幸いです(笑
内容は当たり前ですが「よんかく前史」と同じで、タブレット(通票)閉そくだった路線にはマルTマークをつけたりして、のちの「通票よんかく」の萌芽のような記述も見受けられます。惜しむらくは、まだ通票種別を記録するところまでは至っていなかったことなんですが・・・
列車の混み具合を満席、満員、混雑の3段階で評価しているのも、今からすると「俺ってこんなマメな人間やったんや…?」と変に感心してしまいます(汗
瀬棚線、松前線、歌志内線、美幸線、広尾線…と、今はなき懐かしい路線名が並んでいます。
旅立ちは夜行急行「きたぐに」のBネだったのですが、北海道に上陸して最初にマトモな宿に泊まったのは5日目の帯広(右ページの一番下)。ホテルロビーのテレビに人だかりができていて、全然違う場所にいる私も思わず家に電話して無事を知らせたものです。
そこから中12日、すでに帰途についています。仙台で宿泊し、烏山線に寄り道しながら最終日は大垣夜行で〆。グリーン券を奮発しましたが、今から思うと21時前に東京駅に着いてよく座れたなぁという感じです。
ここに至ってやっと自分の内なる本能に気付いたのか、烏山線の通票種別を書いています。これ以降、非自動閉そく式の路線に乗った時は出来る限り通票種別も記録するようになりました。
最後の「データ」は旅行にかかった費用などをまとめたもので、これも旅行ごとに書いています。全18泊中、宿に6泊もしているのは自分としては多いなぁという印象です(←いつもどんな旅行してんねん
なお、いくつかの路線は夜行で通っただけなので乗り直しの必要あり、と自分に対してエラソーに指示していますが、実は函館本線渡島砂原回り(砂原線)は夜行でも通っておらず全くの未乗だということに帰宅後気づいたため、砂原線にはその後の渡道のたびごとに乗り、ひいてはコース料理を味わいながら砂原線を走るというシュールな体験までさせてもらいました。
ここまででお気づきのとおり、道中の写真が1枚もありません。実は「旅の思い出は心のフィルムに焼き付ければいいのさ」とかなんとかキザなことを考えてカメラを持って行っていなかったのです。なので、逆にここまで必要以上に細かく記録を付けなければならない羽目に陥ったとも言えるわけで、今となってはどちらが良かったのかはよくわかりません。
この北海道旅行の次は同年12月24〜27日の山口方面ミニ旅行(←クリスマスに寂しい一人旅・・・
年明けは1986年2月25日から3日間、青春18きっぷ4枚を使った近畿・中国方面ミニ旅行、そして3月10〜19日にちょっと大きな四国旅行を敢行しています。
以下はその四国旅行の記録です。文章だけに飽き足らず、ついに絵まで描き始めました。
宇高連絡船があった頃です。普通船室は7割、グリーンはガラガラとありますが、宇高連絡船のグリーン船室は全席自由席でグリーン料金は500円、サロ165やキロ58のような急行型リクライニングシートを備えています。連絡船の高松着は032、夜行急行「うわじま1」は043発と乗り継ぎ時間わずかで、青函連絡船と同じく「◯◯走り」が繰り広げられていました。
この時は予讃線の内子経由新線が開業(3月3日)した直後で、海線と山線との分岐部分を除く伊予上灘-伊予白滝間が通票閉そく式のまま残っていたことに驚いたことを思い出します。日に2往復しかない国鉄バスにも乗ってほんまにご苦労さんと自分を生暖かく労ってやりたいです(笑
土讃線のスイッチバック新改駅、坪尻駅の図・・・さぞかし眠い目をこすりながら必死で配線をメモってたんでしょう。現在の坪尻駅は片開き分岐器2基の配線となっていますが当時はシーサスクロスで、謎の引き込み線まで描かれています。
また、この当時は旅先の郵便局でいわゆる「旅行貯金」もしており、そのような記述もあります。
当時の四国には「うわじま1」(高松043→654宇和島)と高松発高知行快速221レ(高松046→432高知)の2本の夜行列車が走っており、どちらも片道のみの運転でした。この日は221レで一夜を明かし、トンボ返りで琴平、高松方面に戻って高松琴平電鉄(ことでん)に乗ったり呑気に観光したりしています。
5日目もまた221レで車中泊(笑
急行用編成の中村行普通列車に乗車。無料開放の旧ロザ車(四国では急行のグリーン車を普通車指定席として運用)に乗ってゆったりと・・・と思いきや、高知駅から先が通票閉そく式だったのにまたまた驚いています。よく驚く旅行です。こんどは高知県内の国鉄バスに乗り、二度と来ることもないであろう山峡の地をぶらついたりしています。
で、6日目もまたまたまた221レ(呆
この日は徳島線穴吹駅から国鉄バスで奇勝「阿波の土柱」見物に行くつもりが、大雨のため旅程変更しました。結局鳴門線だけ乗って、意味もなく予讃線観音寺駅まで往復してそそくさと高松駅前のホテルに投宿しています。
7日目はいったん四国を離れて広島へ向かい、可部線乗車。またまた非自動閉そくに驚いています。
そして四国へ戻り再び夜行「うわじま1」で宇和島、予土線。土佐山田駅から国鉄バスの影(という名の停留所)行に乗って高松へ出て松山泊まりとする予定が、さすがに疲労困憊していたのか徳島泊まりに変更しています。無理はいかんぜよ。
右ページの川奥信号場はいくら略図といえど杜撰で、実際はシーサスクロス配線で列車交換もできる分岐交換型の信号場です。一瞬、森ヶ原信号場(岩徳線・錦川鉄道)かと思ってしまいました。
徳島の朝は眉山から。祖谷渓へ分け行ってかずら橋を渡ったり、珍しく観光っぽいこともしております。よくそんな元気が残っていたもんです。
上の続き。
なんと阿波池田で旅メモが突然終わってしまいました。
もちろんこの後は順当?に帰宅しているのですが、淡々と帰り道を書いても仕方ないと思ったのか、走り書きメモを書く元気もなかったのか・・・
きっぷは四国ワイドと、2月末の近畿・中国方面ミニ旅行で1枚だけ残った青春18の併用でした。夜行列車が2本しかない中、全8泊のうち車中泊が4泊にとどまったのはやむを得ないところでしょう。今なら車中4泊どころか1泊ですら困難ですから・・・
この次の旅行は同年8月18〜26日の関東・中部方面。周遊券を使わず青春18きっぷ2冊使用というこれまた酔狂にも程がある旅でした。
これ以降の旅メモは発着時刻やら乗車車両の形式など細かい内容を省略したため文章の量がガタッと減りますが、代わりに旅程の略図を入れるようになりました。記録の残し方もいろいろ試行錯誤を繰り返していたようです。
1日目は京都から山陰本線・舞鶴線・小浜線・北陸本線を経由して大垣で東京行340M乗車というプラン。「寝台電車475系の改造…」の部分はもちろん間違いで、581系改造の419系です。「身延色」とありますが、ちょうどこの頃の身延線にはワインレッドに白帯の115系が走っていて、それが身延色と俗称されていたのです。
磐越東線、真岡線は通票閉そく式なのに種別を記録していません。熱意が冷めてしまったのでしょうか。
3日目、当時近鉄バファローズファンだった私はわざわざ西武ライオンズ球場に寄り道して西武vs近鉄を観戦し、敗戦の屈辱を引きずりながら新宿へ出て長野夜行441Mに乗車しています。旅メモには詳しく書いていませんが441Mは557着の上諏訪駅で下車、折り返して八王子へ戻り、わずか2分接続だった八高線列車にはもたついていて乗りそびれ、約2時間遅れの行程となってしまいました。
私の旅行は綱渡りが多くてこんな予定変更は日常茶飯事で、東京駅からの大垣夜行345Mにはギリギリセーフで乗り込めたのでよかったものの、結構ヒヤヒヤすることが多かったですね。今もそうですが・・・
345Mを岐阜で下車し、高山本線・富山港線(現・富山地方鉄道富山港線)を回って金沢へ。
6日目は七尾線輪島駅までと、能登線(現・のと鉄道)蛸島駅まで往復の能登半島DAYでした。
7日目は金沢から北陸本線経由で名古屋まで。またしょうこりもなく当時のナゴヤ球場で近鉄バファローズvsロッテオリオンズを観戦しています。名古屋も一応近鉄沿線ということで、年に1〜2カードのみナゴヤ球場を借りて近鉄の公式戦が行われていたのです。客が入らなさそうな対戦相手ばかりでしたが
で、また大垣夜行340Mで東京へ向かうのですが大垣駅まで戻る時間もなく、かと言って名古屋駅からは絶対座れないと思ったので隣の枇杷島駅まで行って乗車し、なんとか座席を確保しました。
8日目は総武本線・外房線の一部と銚子電鉄に乗り回り、なかなかいいちょうしです。「銚電のタブレット」と書いていますが実際は票券閉そく式で、今から見れば「まだまだ青いな…」と言ったところですな。
この夜も長野夜行441Mにて501着の小淵沢で折り返し、非電化・非自動閉そくの相模線に乗って茅ヶ崎駅から東海道本線を西へ西へと帰っていきました。
こんな調子で鉄旅を続けてきたのですが、「旅程の記録」ノートの4冊目、1994(平成6)年1月の山陰・中国方面への小旅行を最後に旅メモは終わっています。
この頃は初めて自分専用のクルマを購入し、鉄旅よりも遠距離ドライブによく出かけていたということもあり、なんとなく鉄道から遠ざかっていた時期でもあったのです。そうこうするうち結婚して子どもも産まれて、なおのこと鉄旅のしにくい状況が数年続くのでした。
なお、のちの鉄旅復活後は旅ノートは作らず、よんかくサイトに「よんかく旅日記」を掲載することで旅メモの代替とするようになりました。これも最近全く更新が止まってますが・・・
そして子どもに手がかからなくなった今は鉄旅に出かける時間的余裕もある程度生まれたものの、若い時のように車中泊の数を競うような旅行は体力的にムリですし、それよりも肝心の鉄道網の方がもうズタズタになってしまい、かつてならフツーに出来た程度の鉄旅すら難度が高くなってしまいました。
旅メモに記録が残っている旅行は31回、車中泊75回、船中泊9回、宿泊73回。
これだけあちこち乗り回ったくせに、もっともっと乗っとけばよかったと今更ながら後悔の日々を過ごしています。