内田信号場から若松駅

「ゆすばるDAY」のつづき・2024年10月13日撮影)

「月イチゆすばるマルシェ」で盛り上がる油須原駅から金田行列車に乗った私は、かつて田川線にあった内田信号場跡を見ようと最前部かぶりつきに立ちました。

油須原出発進行 腕木式信号機は停止ですが(笑

内田信号場は油須原-勾金間(現在の内田-柿下温泉口間)にあった交換型信号場で、石炭輸送が盛んだった時代の生き証人的存在だったのですが、JRから平成筑豊鉄道への移管前日1989年(平成元年)9月30日限りで廃止されました。それから35年も経過しているのでどれだけのものが残っているのか、もう何も残っていないのかも分からないのですが・・・

赤駅を出て内田駅に向かう途中の踏切でさっそく、横に向けられた信号機に出くわしました。

この信号機をストリートビューで見ると背板が長方形の4灯式なので、まさしく内田信号場の下り遠方信号機(の遺品)に違いありません。
撤去に手間と費用がかかるから放置しているのか、それとも大切に保存してあるのか・・・

https://maps.app.goo.gl/xkyQbtpZne6r8fvn6

遠方信号機はその先にある場内信号機の現示を予告するための信号機で、場内停止(R)の場合は注意(Y)を、場内注意(Y)の時は減速(YG)を、場内進行(G)の時は進行(G)という具合に、場内進行以外は場内信号機の現示の1ランク下を現示します。
なので、遠方とは言いながらここからさほど遠くない距離に内田信号場の場内信号機があったことがわかります。

内田駅に接近。駅名こそ「内田」ですが、内田信号場があった位置よりも数百メートル油須原寄りの転換後に新設された棒線駅で、信号場とは直接の関係はありません。

内田駅

内田駅を発車するとほどなく大きなカーブに差し掛かります。内田信号場の構内全体も大きくカーブしていたので、キロ程的にもこのあたりでほぼ間違いないでしょう。ただ、さすがに場内信号機は撤去されているので、正確な場内の範囲が不明確ではあります。
油須原方分岐器があったと思われる場所を過ぎてしばらくカーブを進むと進行方向右手にレンガ造の土台のようなものが見えますが、ここが信号場本屋(ほんおく=駅舎)のあった場所です。

【動画】内田信号場跡地と思われる位置付近

信号場跡地を通過すると、ご丁寧に上り遠方信号機も横向きで保存?されています。木々に埋もれて見通しは悪いですが。

さて、以上をまとめて内田信号場跡などの位置関係を地図上に落とすと、だいたい下のような感じかと思われます。

なお、田川線が平成筑豊鉄道に移管される前日、つまり内田信号場の最後の日の様子をおさめた動画を、鉄道関係のビデオソフトメーカー・ビコム株式会社がYouTubeにアップされていますので、非自動や信号場に関心のある方はぜひご覧ください。
内田信号場 通票閉塞器 最後の稼働 JRから平成筑豊鉄道へ【レイルリポート #23 Classics】

列車が上伊田駅を発車すると右方から日田彦山線のレールが寄り添って合流。しばらく田川線と日田彦山線との共用区間となります。

上伊田駅の先で日田彦山線(右の線路)と合流

しばらくすると田川伊田駅の第2場内信号機が現れ、日田彦山線を左方に分かちながら田川伊田駅に到着。広い構内にあった中線が撤去され、両線ホームの間にはただ草むした空き地が広がっています。
向こうには田川市石炭・歴史博物館の竪坑櫓と、炭坑節にも出てくる二本煙突が見えます。

田川伊田駅 左側のホームは日田彦山線

ここから日田彦山線にひと駅だけ乗って田川後藤寺駅へ向かうのですが、時間があるので一旦駅を出ます。
新しいけどレトロっぽい立派な駅舎で、後になって知ったのですが階上部分は「田川伊田駅舎ホテル」となっていて、いわく「駅ホームから最も近いホテル」だそうです。

次に来た時は泊まってみたい…

日田彦山線ホームに戻って少しうろついてみます。
いかにも不審人物なんですが、実はある目的がありまして・・・

ホームの田川後藤寺方に残された謎の足形と丸に四角の標示。
この標示こそかつて日田彦山線が通票閉そく式だった当時の遺物で、列車に通票を渡す際の確認のためのものです。また、足形は駅長が列車の発着や通過を監視するための立哨位置を示しています。

こんどは反対の上りホームにあった物件。こちらは丸に丸と楕円の2種類と、同じく足型。

田川伊田駅からの通票種別は、日田彦山線が香春(楕円)田川伊田◼️田川後藤寺、田川線が田川伊田●勾金、しかも香春方と勾金方は同一方向なのでこれらの標示とみごとに合致します。
日田彦山線が通票閉そく式から特殊自動閉そく式に変わったのが1984(昭和59)年2月、これらの標示が40年を超える星霜を経て残り続けているのは単なる偶然とも言い難く、ある意志をもって保存されているのではないかとさえ思えてきます。
後藤寺線が通票閉そく時代、田川後藤寺駅ホームにも同様の標示がありました。

ひと駅乗って田川後藤寺駅、そこから再び平成筑豊鉄道糸田線に乗り換えて直方駅へ向かいます。
田川伊田駅で降りた理由のもう一つは、過去1回しか乗っていない糸田線に再乗するためでした。

ちょっと懐かしさを感じる風景?

糸田線(金田-田川後藤寺間)は田川線、伊田線(直方-田川伊田間)とともにJRから平成筑豊鉄道入りした路線で、途中に交換可能駅がない全線6.8キロ1閉そくのミニ路線です。
金田駅で伊田線直方行に乗り換え。伊田線は石炭輸送全盛期に複線化され、今も全線複線です。列車本数は直方-金田間がおおむね1時間2〜3本なので複線は過剰設備のような気もしますが、線路の維持と保線の手間と費用を考えても複線ならではの「ダイヤ組成の自由度」は他に代えがたいメリットであり、わざわざレールを剥がして単線化して交換設備を設ける方が無駄なことは察しがつきます。JRにはさらに列車密度の低い複線区間が・・・

ところで「非電化複線」区間は全国的にも数少なく、函館本線と室蘭本線の各一部、関東鉄道常総線の一部、東海交通事業城北線、伊勢鉄道の一部、筑豊本線(若松線)とこの伊田線ぐらいではないでしょうか(高徳線・徳島線徳島-佐古間のような1〜2駅レベルならもっとありますが)。

さて、直方駅で「ちくまるキップ」はお役御免となり、ここからはJRで帰途に。ただまっすぐ帰るのも面白くないので、これも過去1回きり乗車の筑豊本線(若松線)に乗りに行きます。
直方駅で待っていたのは交流蓄電池電車BEC819系2連の若松行。電化区間はパンタグラフを上げて走行しつつ蓄電池に充電し、非電化区間は蓄電池で走ります。

819系のでんちゃ

このまま若松駅まで乗って行きたいところですが、久しぶりの折尾駅で降りてみることにしました。
複線電化の筑豊本線(福北ゆたか線)をかっ飛ばし、折尾駅の手前で地下トンネルに入ります。
私が以前訪れた時の折尾駅は筑豊本線が地平・鹿児島本線が築堤上の立体交差で、直方方面と小倉方面を結ぶ短絡線があったのですが、現在は福北ゆたか線が地下トンネルの中で若松方と鹿児島本線小倉方に分岐し、それぞれの高架ホームに上がっていくダイナミックな構造の駅になりました。
駅周辺も整備されてすっかり様変わりし、かつての短絡線の跡もどこか分からなくなっていました。

立体交差時代の旧駅舎東口をイメージした新駅舎

駅周辺をちょっと散歩したのち、帰りの新幹線車中で食べる「かしわめし」を入手して若松線ホームで次の若松行を待ちます。
若松線は非電化なので、電化区間を走って折尾駅まで来た車両がどんな振舞いを見せるのかなと思って見ていたら、発車前に律儀に?パンタグラフを下ろしていました。当たり前ですが。

パンタを下ろすでんちゃ

晴れて「蓄電車」となった列車は非電化複線の若松線をゆっくり走ります。
若松線の列車本数も1時間に2〜3本ほどと決して多くなく、列車同士の行き違いは折尾-若松間で1回あるかないかですが、伊田線と同じ理由で複線が維持されているのでしょう。

15分ほどで若松駅に到着。現在は1面2線の小さな行き止まり終着駅ですが、昔は石炭の船積みのための広大なヤードを持ち、日本一の貨物取扱高を誇る一大物流拠点駅としての顔がありました。

黒いダイヤ

駅舎内には石炭輸送と若松駅の歴史を綴ったたくさんのパネルが博物館のように掲げられています。
それらを見ながら東筑軒のうどんスタンドでごぼ天うどんを啜り、近くの大橋通りバス停から若戸大橋経由の北九州市営バスで小倉駅へ出て「レールスターこだま」でのんびりと帰りました。

ごぼ天うどん ごぼうに衣を付けて揚げたものが乗っています

赤村トロッコ油須原線や月イチゆすばるマルシェそして内田信号場跡などを巡って終着の若松駅まで、今日は旧・運炭路線をたどる一日でした。筑豊の栄華を極めた石炭産業の終焉によって失われたもの、そしてそこに新たに芽吹いたものなどさまざま見るにつけ、時の流れの目まぐるしさに追われながら我々は生きていることを改めて痛感しました。

石炭記念館や炭鉱跡の展示施設など鉄道以外にもまだまだ見たいところがたくさんあるので、また近いうちに筑豊を訪れることになりそうです。次は名門大洋フェリーで?