手書き・入鋏式車内補充券

乗り越したりきっぷを持たずに乗車した時、列車内で発行される車内補充券。
今は車掌氏が持つ発券端末でペラ券が印刷されますが、昔は揺れる車内で1枚1枚手書きで、あるいは入鋏して発行されていました。

まずは、国鉄・JRの車内補充券です。

これは私が持っている最も古い車補券で、現在は嵯峨野観光鉄道が走っている嵯峨-馬堀間の旧線が現役の頃、1982年1月5日に保津峡(無人駅)へ写真を撮りに行った帰途に福知山発京都行836レ車内で発行されたものです(この時の写真はまたの機会に改めてご紹介します)。
車補券は2枚1組の複写式となっていて、間にカーボン紙を挟んでボールペンで記入し、複写側を乗客に交付していました。
「福知山車掌区乗務員発行」と、車補券には発行した乗務員の所属が記載されています。上部に記された○に「福」の字が福知山鉄道管理局の伝統ともいえるトレードマークでした。

表と裏

これは年代不明なのですが、地紋が「こくてつ JNR」なのでおそらく1980年代の山陰旅行時の木次線のものです。実際に八川から乗ったわけではなく、山陰周遊券所持だったので1駅分だけ記念に買ったものと思います。まだ全線タブレット閉そくで、急行「ちどり」も走っていた頃です。
木次の下に「三刀屋(みとや)」とありますがこれは鉄道駅ではなく、当時運行されていた国鉄バス雲芸線の自動車駅(停留所)で、上の経由欄にも「雲芸(自)」の記載があります。
このような入鋏式のものは、発駅の駅名と着駅の駅名横の「まで」欄にそれぞれ入鋏(パンチ)することによって乗車区間を表示します。発行日付は日のみ、運賃は1000円単位〜10円単位の数字をパンチします。
複写式と同様に2枚1組となっていて、2枚重ねてパンチし地紋の付いている方を乗客に渡します。

1985年8月9日、北海道旅行の往路途中で矢島線(現・由利高原鉄道鳥海山ろく線)に乗った時のものです。
「特別補充券」となっていますが、一般的な「補充券」は常備していない区間のきっぷを駅窓口で発行するための乗車券様式であるのに対し、駅できっぷを買えなかった客や乗り越し客に列車乗務員が車内で「特別」に発行するものが「特別補充券」という区分のようです。
なので、今回ご紹介する補充券はほとんどが特別補充券ということになります。

1985年8月11日、美幸線(廃線)の車内にて購入。
北海道周遊券を持っていたのできっぷを買う必要はなかったのですが、すでに廃止が秒読み段階となっていた最初で最後の美幸線の記念として発行してもらったものです。
長距離きっぷの需要がほぼ見込めない路線では、このように線区限定の簡素な様式の券が使われていました。

これは上記の北海道旅行の帰途、東海道本線の美濃赤坂支線に乗った時のもので、今から思うとようそんな元気があったもんやと(呆
「美濃」の画数が多いのでひらがなで書かれていますが、揺れる車内での手書き車補発行は本当に大変な作業だったと思います。

この2枚は1990年8月2日、長野からの急行「妙高」車内で購入(長野電鉄初乗り時)。JR移行後の手書き車補で、地紋が「JR E」となっています。
軽井沢から赤羽までの達筆?な乗車券と急行券ですが、運賃券と料金券を1枚で兼用することができないため2枚発行となり、カレチ氏の手を煩わせることになってしまいました。
この時に所持していた信州周遊券の自由周遊区間が軽井沢までで、そこから先の区間外乗車のきっぷであるため、乗車券の「原券」欄には○に「遊」の字が記してあります。

この時に所持していた信州周遊券

旅メモによると早朝435赤羽着で、そこからは青春18きっぷで関東方面の未乗区間を回り、翌日に再び自由周遊区間内へと舞い戻っています。

続いて、JR以外の車補券です。

小湊鉄道は全列車に車掌が乗務し、無人駅から乗車した時などはこの車補券が発行されます。
この券は1992年3月21日、大原からいすみ鉄道→小湊鉄道と房総半島を横断した時のものです。
「発駅」「着駅」それぞれに入鋏する欄が設けてあります。
地紋の「てつどう JPR」はJAPAN PRIVATE RAILWAYつまり「私鉄」のことで、大手私鉄や第三セクターなら社章を地紋にするところがほとんどですが、中小私鉄ではこの共通地紋を使っているところが多かったようです。
きっぷ等の有価証券類の印刷を手がける山口証券印刷(株)のサイトによると「現在関東近郊の私鉄のきっぷに利用されている「PJR」字紋は、昭和26年頃に当時の国鉄に了解いただいて弊社にて制作したものです。」とあり、たしかにPJR紋様のものも見たことがあるのですが、私の手持ちの乗車券類にはありませんでした。

よんかく号がまた脱線しますが、銚子電鉄の地紋は小湊鉄道と同じ「JPR てつどう」です。

しかしながら、栗原電鉄(廃止)は、一見PJRと思いきや、なんと「BJR」でした。

山口証券印刷制作のPJR地紋のPがBに変わり「てつどう じどうしゃ」となっています。
Bはもちろんバスのことで、バス乗車券と共通でこの地紋を使っていたものと思われます。
上田電鉄もBJRでした。

ついでながら、なんと天下の東武鉄道もJPRか?と一瞬思いましたが、「とぶてつ TRC」でした。
紛らわしいわ

車補に戻ります。
続いては鹿島臨海鉄道の地図式車補券です。

1993年5月23日、青春18きっぷ所持で鹿島神宮から水戸まで乗った時のものです。地紋は社章です。
地図式は発駅の○と着駅の駅名に入鋏しますが、発駅として鹿島神宮と北鹿島(現・鹿島サッカースタジアム)の両方に入鋏されています。
言わずもがなですが鹿島神宮-北鹿島間はJR鹿島線で、青春18きっぷが通用します。なので北鹿島だけにパンチすればいいようなものですが、当時の北鹿島は貨物駅で旅客の乗降不可だったため、乗車は鹿島神宮から・運賃は北鹿島から、という趣旨で2つ入鋏しているのかなと思います。

それと、事由欄がかなり充実しています。この中で「分岐」とは、原券の発駅又は着駅以外の駅を発駅として別途乗車することをいい、前述の「妙高」車内で発行された車補券の「4 別片道」に相当します。
その前の羽後本荘-羽後矢島間の車補券も、原券が北海道周遊券なので本来なら「分岐往復」となるはずですが、単に「往復」とされています。

次は茨城交通(現・ひたちなか海浜鉄道湊線)です。

上の鹿島臨海鉄道と同じ日、阿字ヶ浦往復の帰途に購入したものです。JR接続駅の勝田ではなく水戸まで買ったのは、水戸で18きっぷを見せて改札を出ればこの券を手元に残すことができたからです。地紋は茨城交通の旧社章でした。
茨交時代は廃止も取り沙汰された湊線ですが、第三セクターひたちなか海浜鉄道に転換されてからは地元の方々の熱意もあって乗客増に転じ、ひたち海浜公園付近への路線延伸事業中という恵まれた路線です(鉄道神社の御利益?

あと、よもやま話では既出ですが、岩手開発鉄道のもの。
盛駅の窓口でもこの券が発行されていたので、車補券というより窓口・車内兼用の乗車券でしょう。
該当項目を丸で囲むだけの簡素な様式でした。

最後は大手私鉄の車補券…まぁ大手と言ってもいつもの南海ですが(汗

かつて運行されていた天王寺支線(天下茶屋-天王寺間)の券で年月不詳ですが、天下茶屋-今池町間が廃止され他の路線と接続しない「南海の孤島」となった1985年頃のものです。
下車駅は堺東で、今池町と高野線萩ノ茶屋の間が徒歩連絡となっていました。ホルモンで一杯ひっかけながら徒歩連絡可
天王寺から線内の飛田本通または今池町まで乗る場合は南海改札口で現金(90円)を支払うことになっており、今池町より先へ行く場合のみ窓口でこの補充券が発行されました。「天王寺駅発」との記載があるのはこのためで、厳密にいうと「車内」補充券ではなく、基本的に車内で発行されることはありません。

ちなみに、記入式の車補券が券面左側綴じなのに対して、入鋏式の車補券は券面下部が綴じられていました。
この南海の券も下部綴じですが、裏面の「ご案内」が天地逆さまに印刷されていたのは、車内で概算領収額などの書き込みをしやすくするためだったのでしょう。

(イメージです)

手書き式や入鋏式の車内補充券は、発券端末の導入、自動改札・IC乗車券の普及と列車のワンマン化などによって数を減らし、今ではいくつかの中小私鉄でしか見ることができなくなったようです。