再び鉄道球団

以前鉄道球団という投稿で、長年の近鉄バファローズファンだった私が近鉄球団消滅とともにプロ野球を見なくなったという話をしました。
今のオリックス球団は愛称名こそバファローズですが、もともと阪急ブレーブス→オリックスブレーブス→オリックスブルーウェーブに近鉄バファローズを吸収合併したものであり、継承球団はあくまで阪急→オリックスです。

そして私は素直にオリックスファンに移行することができないまま、今日に至っています。
それは何故なのか自分でも明確に分かっていなかったのですが、最近、バファローズはやはり「近鉄電車が所有する球団」だったことに尽きるのではないかと思うようになりました。

近鉄電車

なぜ今頃になってこんなことを言いだすのかと言いますと、現在NHKで放映されている連続テレビ小説「舞いあがれ!」のお好み焼き屋の大将が熱烈な近鉄ファンという設定で、藤井寺時代の懐かしい三色ユニフォームを常時着ていたりするものですから、ごくごく限られた一部方面において「近鉄バファローズ」が話題になっていて、SNS上でもちょっとした盛り上がりを見せていたからです。

東大阪市という舞台設定上、近鉄電車が時々登場し(ロケ地は大阪線俊徳道付近?)、それがバファローズの旧ユニフォームや三色帽とシンクロするように描かれる心憎い演出がオールドファンを唸らせたものと思われます。

抑えの切り札石本、若武者村上、準エース小野

SNSを見ていても、私と同様な「心の中に生き続ける近鉄バファローズ」を熱く語る人がこんなにも多いのかと、すこし目が潤んできたりもしました。
「バッファローズ」と書く人を非難する「バッファローズ警察」なるしょうもない行為も出てきたりしていますが

この子は「バファ君」ではなく「バッファ君」です

このドラマの中でも2005年の近鉄球団消滅が描かれたわけですが、その後の大将の動向についてはほとんど触れられていません。

さてその17年後の今年、オリックスバファローズが日本シリーズでヤクルトスワローズを破って日本一となったのには、 球団消滅からプロ野球に背を向け続けてきた私も流石に心を動かされ、近鉄球団を思い出しながらひとりでささやかな祝杯をあげました。

その後、阿倍野近鉄百貨店で「オリックスバファローズ優勝セール」が開催。
あろうことか球団を見限ったはずの近鉄が節操もなくこのような便乗商法に走ったことに、怒りさえこみ上げてきたものです。阪神ファンの義母は喜び勇んでセールに駆けつけたようですが

節操のないセールが行われた場所

近鉄球団は発足当時、伊勢志摩特産の真珠から採った「パールス」といういかにも近鉄チックな愛称名でしたが、思えば鉄道球団で本業関連の愛称名をつけた例ってあんまりありません…虎、鷹、勇者、ライオン…国鉄スワローズは往年の名列車「燕」ですから鉄分ゼロではないですね。

また、かつて東急が所有していたフライヤーズ(現・日本ハムファイターズ)は「飛ぶように走る急行列車」の意との説がありますが、よくわかりません。
1954年にフライヤーズは東急の手を離れ、東映フライヤーズとなります。

東急球団と入れ替わりで登場した電車

そのパールスは可愛らし過ぎる名前ゆえ?か万年Bクラスで、「地下鉄パールス」と揶揄されていたと亡父がよく言っていました。
蛇足ながら父は巨人ファンからヤクルトに転向、私は近鉄、2人の弟は南海&ロッテとバラバラで、関西人代表のように言われる阪神ファンは我が家にはひとりもいません。

近鉄球団はその後、千葉監督の渾名に因むバファロー→バファローズに改名しますがなかなか下位集団から脱することができず、阪急から西本監督を迎え初のプレーオフ出場を果たすまでは茨の道だったと言います。

茨の道

西本監督以降は優勝争いにも顔を出すようになり、1978年後期最終戦の阪急との直接対決…いわゆる藤井寺決戦で涙を飲んだ翌年、主砲マニエルの死球離脱がありながらもかろうじて前期優勝、そして阪急とのプレーオフで3連勝して初のリーグ優勝を飾ることとなります。
本当にこの年は、近鉄ファンで良かったと思いました。

さて、鉄道球団は近畿圏に集中していた感がありますが、上記のように一時期だけ東急フライヤーズが存在していましたし、セパ分裂直後には名鉄と中日新聞社がドラゴンズを隔年で運営していた時期があったそうです(どちらの運営でも優勝することはなかったようですが)。
なかなか鉄道球団の系譜は一筋縄ではいきませんな。

私は国鉄・南海沿線にしか住んだことがないのに近鉄ファンだったのですが、沿線のよしみで隠れ南海ホークスファン(近鉄戦以外に限る)でもありました。
当時の南海電車の塗色がステンレスカーを除き概ね緑系だったので、ホークスのチームカラーも緑色でした。
野村監督兼捕手の最晩年の姿を球場で何度か見ていますが、広瀬監督に変わったとたんBクラスの常連と化し、福岡ダイエーホークスとなってからもしばらくは不遇の時代が続くのでした。

緑の電車、南海電車

70〜80年代の阪急ブレーブスは憎たらしいほど強かったですね。
ただ強いけど可愛げがないというか、大相撲で言うと北の湖みたいな印象でした。
そのせいか客足も鈍く、西宮スタジアムも野球より競輪開催日の方が客数が多かったみたいなことも言われていました(組み立て式のバンクをグラウンドに設置して競輪場として使用)。
端的にいうと阪神タイガースに客を奪われていたのですが、今は阪急阪神ホールディングスとして阪急が間接的に阪神球団の経営に参画するようになり、時代は変わったものだとつくづく思います。

阪急の軍門に降った阪神

パのもうひとつの鉄道球団・西鉄ライオンズについては残念ながらほとんど記憶になく、わたしが本格的にプロ野球を見始めた頃には太平洋クラブライオンズに変わっていました。
ただ、父はじめいろんな人から西鉄時代の神様仏様稲尾様の1シーズン42勝(このほか今でいうセーブも11)など「今の軟弱なピッチャーに稲尾の爪の垢を煎じて飲ませたい」みたいな話ばかり聞かされていました。稲尾の他にピッチャーおらんかったんか
私にとって稲尾氏はロッテ(当時オリオンズ)の監督というイメージが最も強いですね。

しばらく鉄道から離れていたライオンズは私が中学生の頃に西武ライオンズとして再起し、鉄道ファン的観点からも嬉しかったものですが、根本監督はシーズン当初からなかなか勝てず敵チームながら可哀想に思ったものです。まぁその後広岡監督に替わると憎たらしいほどの強豪チームになるわけですが…。

元・西武の「近鉄」(近畿日本鉄道にあらず)

長年にわたり「人気のセ・実力のパ」と揶揄っぽく言われ、何かにつけて辛酸を舐め続けてきたパ・リーグが人気を盛り返してきたのは、各球団の経営努力とリーグとしての取り組みの賜物でしょう。
パ・リーグの球場で試合前に流されていたトランザムの「白いボールのファンタジー」を空席の目立つスタンドで聴き続けてきた世代ですが、いまでもこの曲を聴くと涙が出そうになって困る自分がいます。

近鉄バファローズよ、そしてパシフィック・リーグよ永遠なれ・・・

岡本太郎展@大阪中之島美術館 にて