時刻表1961年10月号 北陸線・高山線編

北陸本線敦賀-今庄間は北陸トンネル開通前の旧線です。北陸トンネルは翌年、1962年6月の開通でした。
この区間の停車場は、敦賀駅-深山(みやま)信号場-新保駅-葉原信号場-杉津(すいづ)駅-山中信号場-大桐駅-今庄駅。急勾配とトンネルが続く難所中の難所で、新保、葉原、山中はスイッチバック式です。機関車牽引列車は補機が必要だったため、当時の今庄駅には今庄機関区が併設されていました。

なお、木ノ本-敦賀間は1957年に旧線から新線への切り替えが行われたばかりで、旧線は全線1閉そくの「柳ヶ瀬線」となりました(下欄ダイヤ参照)。
柳ヶ瀬線は疋田-敦賀間の鳩原信号場で新線(単線)と合流し敦賀まで線路を共有していましたが、新線が複線化されると北陸下り線を柳ヶ瀬線の上下列車が走ることとなるため、複線化とともに疋田-敦賀間がバス代行となって柳ヶ瀬線は盲腸線化、そしてその翌年全線バス転換されています。

峻険な旧線時代の北陸本線ですが、列車もなかなかの強者揃いです。
まず東京発米原経由金沢行の急行「能登」。東京方面と北陸地方を結ぶルートは上野から横軽経由または長岡経由が思い浮かびますが、福井など金沢以西へのアクセスは米原回りの方が若干有利といえます。
地味に米原発横軽経由上野行普通列車612レの姿も。

1961年10月改正で登場した北陸本線初の特急「白鳥」はキハ82系による大阪発青森・上野行で、直江津で上野行を分割します。前述のとおり今庄駅では補機の連結・解結が行われるため基本的に全列車が停車しますが、DCの「白鳥」だけは通過でした。
青森編成・上野編成それぞれに食堂車を連結していて、担当営業所が異なりメニューも別だったので、大阪-直江津間では食堂車のハシゴが楽しめたそうです。

その右隣になんとなく大阪発青森行普通列車511レが記載されています。普通列車としては当時最長で、「白鳥」が青森までの1052.9km(当時)を15時間45分で走破するのに対してこちらはほぼ倍の31時間4分を要しています。
全区間乗り通してみたい気もしますが、青森に着いた頃には憔悴しきってそのまま「日本海」でトンボ帰りとなるでしょう(笑

さらにその右に顔を出すのは名古屋発名古屋行の循環準急「こがね」で、北陸新幹線開業前の「しらさぎ」と「ひだ」をつなぎ合わせたような列車でした。名古屋-岐阜間が複乗となるので、厳密にいうと循環とは言えないのかも知れませんが… ラケット型?
「こがね」の逆回りは「しろがね」の名で、昼行・夜行の2本を運行していました。

大阪から金沢・富山へは準急「ゆのくに」「加賀」と急行「立山」、夜行は新潟行普通2本のほか、青森行急行「日本海」と富山行準急「つるぎ」。どちらもロザ・ハザ・ロネ・ハネを連結しており、ロネは「日本海」がBロネ(開放式)なのに対し「つるぎ」がCロネ(ツーリスト式・こちら参照)だったのは急行と準急の差によるものと思われます。

北陸本線の旧線跡の大部分はトンネルを含めて道路に転用されているほか、一部は北陸自動車道の道路敷となり、木ノ本-敦賀間にあった刀根駅の跡には北陸道下り線刀根PA、杉津駅跡には北陸道上り線杉津PAが設置されています。

鉄道のルートをのちに高速道路が踏襲するのは、鉄道建設技術に先見の明があったことを示しているようで少し誇らしく思いますが、後からパクっておいて今では自分の方が本家、みたいな顔をされることへの悔しさもあります。
鉄道と道路に限った話ではありませんが…

スイッチバック式の刀根駅(鉄道ピクトリアルNo.573(1993年4月号)から)

上の写真は新線切り替え直前の刀根駅で、こちらに向かってくる旅客列車のいるあたりが現在の刀根PAと思われます。小ぶりなブラケットに設置された2基の腕木式信号機のうち、進行現示になっているのは本線側、背の低い停止現示の方は引き上げ線側への場内信号機です。

下の写真は地元の敦賀市立東浦小・中学校の皆さんが描いた「OLD SUIZU」で、北陸道上り線の杉津PAの壁面に掲出されています。
機関車の右横に単灯式信号機が立っています。単灯式信号機は積雪地などにおける腕木式信号機の代替として登場したもので、信号てこの操作により赤色と青色の色ガラスを転換して信号を現示するというものです。
当時の写真をもとにしたものと思われますが、細かいところまで見逃さずよく描けていると感じ入ります。

北陸道上り線杉津PAに飾られているOLD SUIZU

ちなみに、杉津駅付近からの海側の眺めは北陸本線有数の車窓風景として有名でしたが、ほぼ同位置にある現在の杉津PAからは、大型車の駐車スペースが邪魔になって残念ながらほとんど眺望がききません。

ついでながら支線区の時刻をば。

当時の七尾線は輪島が終点でした。1991年に和倉温泉-輪島間が第三セクターのと鉄道に転換された当時はまだタブレット閉そくが残存していましたが、能登三井駅の閉そく扱いを取りやめて1閉そくとなったのち、2001年に廃止されました。
また、穴水からは能登線が分岐して宇出津までを結んでいました。能登線はこのあとも松波、蛸島と段階的に路線を伸ばし、のと鉄道転換後には珠洲まで自動閉そくとCTCが導入されますが、合理化の甲斐なく路線の大部分である穴水-蛸島間が2005年に廃止となっています。
越美北線は勝原が終着で、この先九頭竜湖まで伸びるのは1972年のことです。

次は金沢-直江津間です。
米原方面からの直通列車のほか、金沢発の列車も多くみられます。

大阪からの準急「つるぎ」は、高岡から通勤通学時間帯の普通列車となります。
金沢からは高山本線経由の名古屋行準急「第2ひだ」。ちなみに「第1ひだ」は名古屋-高山間の運転です。
また、上野行急行として横軽経由の「黒部」「白山」と長岡経由の「北陸」が登場します。この「北陸」はブルートレインとなったのちも、スイッチバックを伴う長岡経由を堅持していましたが、2010年3月改正で廃止されました。
他には新潟行の気動車急行「きたぐに」。早朝に大阪を出た青森行511レはやっとこさ夕刻から夜に差し掛かります。前述の名古屋発着循環準急「しろがね」2本も見えます。

下欄には大糸線の時刻。当時は松本-信濃森上間が電化区間で、新宿発着の乗り入れ準急は「白馬」。車両の入庫と送り込みを兼ねた線内のみの名無し準急が走っています。
右側には縦組みで城端線と氷見線。当時から列車本数が多いですね。

最後は高山本線です。

優等列車はいずれも名古屋発着の準急で、今まで何度も出てきた「こがね」「しろがね」と「ひだ」。「しろがね2」は線内を夜行列車として走行、これに対する上り夜行は「第3ひだ」となります。駅が大幅に省略されているので、白川口-越中八尾間あたりでは準急列車も各駅停車みたいに見えてしまいます。
1965年には名鉄神宮前・高山間の準急「北アルプス」の運転が始まります。名鉄犬山線・各務原線の新鵜沼駅構内と高山本線鵜沼駅構内とを結ぶ短絡線を経由していました。

これらの準急列車は1966年3月に急行へ格上げされ、1968年3月改正では「ひだ」が特急となります。1970年には「北アルプス」が富山地方鉄道立山への乗り入れを開始し、名鉄・国鉄・富山地鉄の3社にまたがる急行(1976年からは特急)列車として名の知れた存在でした。
私は、2代目北アルプス車の名鉄キハ8500系の時に短絡線部分だけ乗りに行きました。キハ8500系は「北アルプス」運転終了をもって会津鉄道に譲渡され、その後の紆余曲折を経て現在はマレーシアの地で健在とのことです。

ページの左端に縦組みで国鉄三国線のダイヤが掲載されています。金津は現・芦原温泉、芦原は現・えちぜん鉄道あわら湯のまちです。
最初は官設鉄道として金津-三国港間が開業しましたが、のちに福井方面から延びてきた京福電鉄(現・えちぜん鉄道)と並行することとなり、戦時中に不要不急路線として三国線が廃止された際に京福が芦原-三国港間を引き継いで運行し、これがそのまま現在のえち鉄三国芦原線となります。
この時刻表に載っているのは終戦後に復活された金津-芦原間のダイヤで、復活当初は一部列車が芦原から京福三国港まで乗り入れていたようですが、この時点では乗り入れが終了していたのか全列車芦原止まりとなっています。

次回は中央本線、信越本線、上越線などの予定です。