AMARUBEへの道 2

前回「AMARUBEへの道 1」の続き

(特記を除き1982年頃撮影)

保津峡の一つ京都方にある山陰本線嵯峨駅(現・嵯峨嵐山駅)近辺です。
今は嵯峨野観光鉄道トロッコ嵯峨駅隣接の橋上駅となっていますが、それ以前は貴賓室を備えた三角屋根のレトロモダンな駅舎が特徴でした。
筒形ポスト、電話ボックス、クルマのフォルム・・・う〜ん昭和。

天龍寺近くの跨線橋上から福知山方を見たところです。
複線電化の今と違い、明治時代に開業した当時の風情が残るような寂しい線路でした。
奥に見えているトンネル入口に今の嵯峨野観光鉄道トロッコ嵐山駅があり、現在の山陰本線はその手前から右側に外れていくような形で敷設されています。

「あさしお」でしょうか、排煙をもうもうとあげながらキハ181がトンネルに向かって行きました。
この付近、野宮神社横の踏切に至る竹林の中の小径はかつて訪れる人も多くなく、ひっそりとした佇まいが気に入っていたのですが、嵯峨野の映えスポットとして紹介されて以来、国内外の観光客でごった返すようになってしまいました。この付近の線路に立ち入って炎上した芸能人もいましたが

こちらは少し斜めから嵯峨方を。
この陸橋は嵯峨駅の上り遠方信号機が見通せる位置にあり、信号現示がGやYGに変わるのが上り列車接近のサインになっていました。
私の他にも2人ほどカメラを構えていましたが、陸橋はもともとは天龍寺内の墓地への通路で、現在は立ち入り制限が厳しくなっているようです。

ちょっと外れて京福電気鉄道嵐山本線(嵐電)の終点・嵐山駅。
モボ301はもともとトロリーポール集電でしたが、この時にはZパンタに付け替えられていました。

山陰本線に戻って福知山へ。
前回書いたとおり長距離普通列車は客車、福知山までの短距離は気動車との棲み分けがありましたが、少ないながら短距離の客車列車も運転されていました。
このナハフ11トップナンバーは1957年5月落成時配置が品川所、廃車時は福知山所(福フチ)で、現在は群馬県の「碓氷峠鉄道文化むら」で保存されているようです。
いわゆる軽量客車の10系は、従来の客車とは打って変わったノーシル・ノーヘッダーのスマートな外観を持ち、それまで白熱灯だった客車の車内灯に蛍光灯を導入した画期的な車両でした。

福知山その他で乗り継いで、いきなり(汗

駅名は「餘部」ですが、橋梁の方は所在地の地名に合わせた「余部橋梁」が正式名称です。
姫新線余部(よべ)駅との混同を避けるため、駅名は敢えて旧字体を維持しています。
鉄道愛好家の間では夙に名高かったこの橋も1980年代あたりはほとんど観光地化しておらず、ごく日常的な鉄道風景に過ぎなかったように思います。

余部橋梁の詳細については検索すれば多数出てきますのでここでは触れませんが、閉そく趣味的な観点からすると橋梁のたもとに立つ信号機が気になります。
私はずっと、この信号機は橋梁の風速計が限界風速を超えた際、CTC指令の操作で停止を現示する出発信号機的な役割だと思っていたのですが、よく見ると「1」という閉そく信号機識別標識が付されているので、上り第1閉そく信号機ということになります。
強風時に抑止を指示するのは特殊信号発光器で、架け替え前の旧橋梁時代は赤5灯の回転形のものが設置されていましたが、現在は棒状の点滅形のものが閉そく信号機の下位に付設されています。

現行の上り第1閉そく信号機と特殊信号発光器(2021年11月26日撮影)

なお、餘部駅から橋梁を挟んで東側にある鎧駅は2012年ごろに交換設備が撤去されましたが、棒線駅となったにもかかわらず現在も双方向に場内・出発信号機のある「停車場」という扱いです。
余部橋梁が運転抑止となった際、鎧駅で折り返しができるようにしてあるのかも知れません。あくまで推測ですが・・・

当時の余部鉄橋を渡った優等列車は特急「あさしお」「まつかぜ」「はまかぜ」
急行「だいせん」「但馬」「白兎」「大社」「美保」
ブルトレ「出雲」「いなば」・・・など。

普通列車は京都や大阪など発着の長距離客車列車が主体。
上り終列車の2101発福知山行は、当時の最長距離普通列車だった門司発福知山行824列車です。

この日は余部ユースホステルに投宿。
駅から地上に降りて20分ほど歩いてまた山を登ったところにある到達難度やや高めの宿でしたが、そのようなところでも難なく歩いて行けた若き日が懐かしく思えます。