再び越えたい 矢岳越え

唄の文句ではありませんが(汗

2020年7月の豪雨災害で甚大な被害を受けた肥薩線。
今なお不通となっている人吉ー吉松間「矢岳越え」区間の古い写真(1990年3月撮影)を少しご覧いただきます。

このころはまだ「いさぶろう」「しんぺい」のような観光列車は設定されておらず、博多(熊本)ー宮崎間急行「えびの」と普通列車が運行していました。

まずは人吉から普通列車に乗り込みます。

普通列車に運用されていたのは私と同い年の2エンジン車キハ52134。
貫通扉だけ他形式(キハ58?)から持ってきたので、しかめっ面のような一種独特なご面相です。

エンジンを震わせて大畑へと向かいます。

災害不通になる直前のダイヤでは人吉ー吉松間では定期の列車交換がなく、時刻表上ではさながら1閉そくのような感じでしたが、それよりふた昔ほど前のこの日に乗った吉松行は、大畑で博多行「えびの」と交換します。
かぶりつきから見ていると、吉松方から来た「えびの」と同時入線となりました。
こちらもあちらも互いに駅に向かって進行中です。

大畑は今でこそ観光駅として有名になりましたが、当時は鉄道ファンなど知る人ぞ知る存在でしかなかったように思います。
すでに特殊自動閉そく化されていましたが、この数年前に初めて訪れた時はタブレット閉そくが残っていました。

エンジンの淡い煙を残して「えびの」が先に出発していきました。

わが列車も大畑を後にし、次の矢岳へと向かいます。

ここからいよいよ矢岳越えにかかります。

矢岳はかつて交換可能駅で、この区間の自動閉そく化とともに棒線化されたようです。
現在は駅横に「人吉市SL展示館」がありますが、この訪問時にはまだそのようなものはなく、乗り降りする人も皆無でひっそりとしていました。

大畑と同じく、毛筆体の駅名標が独特の雰囲気を演出しています。

矢岳トンネルをくぐると下り勾配となり、転がるように真幸へと滑り込みます。
ここも大畑と並ぶスイッチバック駅として知る人ぞ知るスポットでした。

有人駅時代はホームの玉砂利が枯山水のように掃き清められていることで知られていましたが、無人駅となった当時も熊手で丁寧に紋様が描かれていたのは、地元の住民の方がされたものでしょうか。

2回目のスイッチバックを行い、列車はさらに坂を駆け下りて吉松に到着しました。

当地にはこの13年後にも訪れているので、その時の写真(動画)もまたの機会にご覧いただきたいと思います(ごく一部だけよんかくサイト「南九州へろへろ紀行」に掲載しています)。

ところでこの記事を書くちょっと前に、およそ235億円と見積もられる肥薩線の復旧費用のうち、球磨川や国道の災害復旧事業と連携させることによって半分以上を国が負担し、復旧に慎重なJR九州の後押しをする方向性であることが報じられました。

肥薩線復旧に多額の国費を投じることに対しては賛否両論が起こるでしょうし、復旧後の路線運営についても厳しさが予測される中、どこまで実現可能性があるのかは不透明ですが、地元の方々や鉄道利用者(もちろん我々鉄道ファンも含めて)にとってこのような方向性が示されたことは歓迎すべきことには違いないと思います。

矢岳越えのように険しい道のりであっても、越えた先には新たな肥薩線の未来が待っている、そんな時が来ることを願っています。