すきすききすき線 番外編

「すきすききすき線 2」のつづき)

すきすききすき線の番外編として、ちょっと古い写真などをご覧いただきます。
1981(昭和56)年8月、高校生よんかくの夏休み。たぶん2回目の木次線訪問時でした。

起点・宍道駅。対面の崖に労組のスローガンが掲出されているのが何とも時代です。
当時の山陰本線は非電化で、翌1982年7月に伯耆大山-知井宮(現・西出雲)間が電化開業しました。電化直後、岡山発知井宮行の「やくも」(米子-知井宮間普通)が運転されていた時期があり、側面の方向幕にも「特急やくも 知井宮」て出てたもんですから「これどこ行き?」と戸惑う人が多かったと思うのですが、それでも10年近く「知井宮やくも」が走っていたように記憶しています。
ちなみに、宍道駅の所在地は八束(やつか)郡宍道町から現在は松江市に変わっています。

鳥居(駅名標)は、今のようなコーポレート・アイデンティティ化されたものより手書き感があっていいですね。
向こうに停まっているのは、当時木次線の主力の一端を担っていた2エンジン車・キハ52です。
木次町も今は合併により雲南市の一部となっています。

ホーム上にずらりと並ぶ腕木式信号機の信号てこです。ホームのてこの直下部分から左右に出ているワイヤーは出発信号機や場内信号機につながっており、てこを倒すとワイヤーが引っ張られ該当の信号機の腕木が下がって「進行」を現示します。

木次駅では分割併結がよく行われ、宍道駅を出た時には4両編成だったものが切り離されて2両や単行になって備後落合方へ発車したりしていました。
正面はキハ53、左側に映っている横顔は運転台が高いのでキハ40でしょうか。

 

ここで、昔日の木次線ダイヤをご覧ください。
まずは「国鉄監修 交通公社の時刻表」1978年8月号から。

急行「ちどり」が夜行1往復を含む3往復、しかも臨時夜行まで走るという、木次線が山陰・山陽連絡線として最も輝いていた時代です。この頃の「ちどり」は交換駅だった加茂中、下久野、八川、油木をタブレット通過授受をしながら通過していて、なんとか急行らしいスジを保っていました。
広島発の臨時「ちどり51」の編成は457D→急行「たいしゃく2」に併結の形で広島に送り込まれ、翌朝に米子へ戻るというものでした。米子から木次への送り込みがどうなっていたのかが気になりますが・・・
問題?の出雲横田-備後落合間は9往復の運転で、出雲坂根駅での列車交換も行われています。

そしてこれ以降、高速道路網の発達や高速バスの台頭により「ちどり」は本数を減らし、木次線は山陰・山陽連絡の機能を次第に失っていくのでした。

次はちょっと飛んで「国鉄監修 交通公社の時刻表」1985年5月号。

「ちどり」から指定席車とグリーン車が外され全車自由席3両編成となって1往復運転に。たとえ1往復となりながらも、よく走っていたものと感心します。
さらに加茂中・下久野にも停車してほぼ「隔駅停車」化し、名実共に千鳥足停車となってしまいました。
普通列車の本数は1978年とほぼ変わらず、全体としては「ちどり」が間引かれた分だけ減った形です。早朝の八川発松江行列車がまだ残っています。

またまた飛んで「JTB時刻表」1998年4月号。国鉄からJRに移行して「国鉄監修」でなくなったのと、交通新聞社の「JR時刻表」が発刊されたため、時刻表の名称も変わりました。

1990年、ついに木次線から「ちどり」が消えました。「ちどり」の名は広島-備後落合間急行としてしばらく残り続けますが、松江城の別名「千鳥城」とは全く無縁の列車となってしまいました。
普通列車の本数は宍道-木次間で1.5往復の増、木次-出雲横田間は上りが10本に増えたものの下りは7本のままとアンバランスに、そして出雲横田-備後落合間が4往復に減便されました。
減便されたものの、夕刻に出雲坂根駅で列車交換が1回行われているのは見事と言えましょう。
なお、1998年4月から「奥出雲おろち号」が運転を開始するのですが、不思議なことにこの「JTB時刻表」1998年4月号のどこを見てもダイヤが掲載されていません。

さて、写真に戻ります。
出雲横田駅の社殿造り駅舎。駅前に箱型セダンのタクシーがずらりと並んでいます。
この駅舎は現在も1934(昭和9)年開業以来の姿を保ち続けているそうです。

さらに飛んで出雲坂根駅。
スイッチバック折り返し点からの線路と合流し、駅構内へと入っていきます。

右側にちらっと写っている木造の建物は、かつての信号扱い所(信号所)です。
この写真時点では信号機は色灯式に代わり、信号もポイントも駅長室の操作盤のスイッチで転換するようになっていたので、信号扱い所はすでに空き家状態でした。もちろんこの建物は解体され現存しません。
左手にはハエタタキ(碍子をたくさん並べた信号通信用電柱)も立っています。

駅の山側に、三段式スイッチバックをイメージした案内看板がありました。
右下にある白い看板は「当駅から」という標題で、文字がほとんど読めなくなっていますが、たしか東京、三次、広島とあと1か所どこかの駅までの営業キロ数が書かれてあったように思います。

上り方への線路の脇にあった当時の「延命之水」。
列車到着とともに人々が駆けつけて喉を潤そうとするのですが、チョロチョロとしか出ていないので順番が回ってくるのに時間がかかります。発車時刻を多少経過しても運転士氏が気長に待ってくれるという時代でした。
今は駅の向かいに新しい水汲み場があり、滝のように水が流れ出ています。

これは木次線だったか芸備線だったか記録が残っていないのですが、たまたま乗り合わせたキハ52の車内です。
当時ももちろん基本的に車内灯は蛍光灯だったのですが、この車両は廃車が近いのか白熱灯のまま残されており、乗った時は一瞬目を疑いました。
トンネルに入ると、本も読みづらくなるぐらいに暗くなります。

粒子の荒いプリントとよんかくの心の中に残る、木次線のささやかな記憶です。