日  程 2003年3月28〜30日

目  的 関西本線、飯田線、中央東線、篠ノ井線などの信号場めぐり


柘植で「かすが」と交換
 なかなか乗る機会に恵まれない

1日目(3/28・金)
自宅−天王寺−奈良−加茂−亀山−桑名−朝明信−名古屋−中津川−飯田−辰野−岡谷−茅野

青春18きっぷを携えて自宅を7時過ぎに出発、天王寺から大和路線(関西線)区間快速奈良行に乗り込む。運転士氏は信号機の指差確認をオーバーアクション気味にやるので、かえって大丈夫かとひやひやする。ラッシュ逆方向なので車内は空いていたが、王寺でどっと乗ってきた。ATS−P区間も王寺で終わりで、ここからは閉塞区間がとたんに長くなる。
奈良からの加茂行は221系。途中、ナラ区への分岐点である
佐保信号場を見やって加茂到着、ここからはキハ120×2連の亀山行に乗車。車内はハイカーらしき人が多い。次の笠置でかなり空くが、対向列車遅れのため5分遅発。この遅れは伊賀上野停車中に取り戻し、定時運転となる。
柘植を出ると、私は座席を立って運転席横の最前部かぶりつきへ。言うまでもなく
中在家信号場を観察するためで、この列車はここで停車して下り列車をやり過ごすことになっている。第1引上線に入ってバックを始めると車内が一瞬ざわめくが、「スイッチバックや」との声も聞こえたので、今日の車内の鉄分はやや濃い目のようだ。第2引上線で停車すると「信号場です。反対列車通過待ちです。3分ほどお待ち下さい」との放送。スイッチバックにしても信号場にしても、事情を知らない人には何がなんだか訳が分からないことだろう。しかしスイッチバックを最前部で堪能できるなんて、キハ58など昔の気動車では考えられなかった。まぁ、キハ58には120にない旅情というか雰囲気があって、それはそれでよかったんだけれど。


朝明信号場に近寄るのもこれが精一杯

中在家信での交換を済ませ、加太越えも難なくクリアし、亀山の1キロほど手前から複線となって場内に進入。乗り継ぎの名古屋行は313系×2連。朝日を出るとかぶりつきに立ち、朝明信号場を撮影する。
桑名から近鉄でひと駅戻って益生まで行く。
朝明信をじっくり観察しようと益生まで来たものの、信号場の際まで住宅が立ち並んでいて近寄ることができず、しかも線路がやや高い築堤上にあるため線路の様子が見えない。地上からの撮影はあきらめ、益生駅北側の跨線歩道橋上にてカメラを構える。ここからは三岐鉄道に移管された北勢線の築堤もよく見える。
再び桑名に戻ると、富田浜で置き石があった関係で次の名古屋行普通が9分遅れているとのこと。全く迷惑な話だが、所定外の列車交換や交換駅変更などがあるかも知れない、と思うと楽しみになってきた。
列車が遅れているためか各駅ごとに大人数の客が乗ってくる。かぶりつき近辺も大混雑だ。それでも私は人目もかまわず
白鳥信号場伏屋信号場通過のたびにビデオを回していた。世に言う「鉄ヲタ」とはまさしくこういう人物のことを指すのだろう。しかも信号場だけを撮るとはあまりにも怪しすぎる…
どううまくダイヤ処理したのか、駅や信号場で待たされたりということはなかった。ただ、名古屋直前の
笹島信号場では下り列車が単線区間に入るのを、わが列車に足留めされていたようだ。


いいなかライナーの乗車券

名古屋には10分遅れで到着、中央本線中津川行快速にぎりぎり乗り込む。名古屋でホーム立ち食いのきしめんを昼食にしようと思っていたのが大誤算だ。このまま空腹を抱えて1412着の中津川まで行くしかない。
中津川に着くや否や駅そばをかき込んで、駅弁(栗おこわ)も入手した。駅窓口でJRバス「いいなかライナー」飯田までのきっぷを買い、早々にバスに乗り込んで栗おこわを広げる。「しなの」が着くと「いいなかライナー」への乗り継ぎ客が結構乗り、20人くらいで中津川を発車した。
バスは中央道を快走、園原ICで一般道に下り、昼神温泉を経由して飯田市街へと向かう。昼神温泉への道は急カーブの連続で、運転士氏は必死でハンドルを回し続けるが、乗っている方は適当にスリルがあって面白い。
本当は飯田線には豊橋から乗りたかったが、それをやると大沢信号場の通過は日没後になり、宿泊地の茅野到着は夜遅くなってしまう。苦肉の策で「いいなかライナー」を使ったが、中津川からわずか約1時間で飯田に到着という時間短縮効果は抜群で、1,090円はお値打ちだ。残念ながらこれでは鉄道は太刀打ちできない。


元善光寺にて

今回の飯田線は全体の3分の1程度しか乗れないが、それでも15年ぶりぐらいなので楽しみだ。信号設備や軌道はかなり更新されていたものの、急坂・急カーブに車輪をきしませながらそろそろと走る姿は相変わらず。架線柱も多くはコンクリート製の新品に変わっていたが、私鉄時代からのものと思われるレトロな金属製のものを見つけては感激する。交換駅の間隔(閉塞区間)が短いのは列車速度の遅さによるものだと思っているのだが、つい20年ほど前まではこれらの交換駅すべてでタブレット扱いを行っていたというのが信じられない。急行列車などの通過授受もふんだんにあり、飯田線は非自動パラダイスだったんだなぁと、自動化後に初乗りした私などはほぞを噛むしかない。
大沢信号場では交換のため停車。日は沈みかけというものの撮影にはまったく支障なく、運転席後ろから交換シーンをカメラに収める。
この列車は辰野止まりだったので、岡谷行に乗り換えるわずかな時間に、久しぶりの辰野駅のたたずまいを観察する。優等列車に見放されてさびれた長いホームに単行のミニエコーがぽつんと停まっていた。外はもう暗く、辰野−川岸間にある平出信号場跡を車窓から眺めることはかなわなかった。
岡谷で再び乗り換えて茅野へ。駅から徒歩10分程度のホテルが今夜の宿だ。翌日の行程を道路地図で確認しているうちに眠気が襲ってきた。


この坂を登るのか!?(東塩尻)

2日目(3/29・土)
茅野−普門寺信−東塩尻信(跡)−松本−平瀬信−羽尾信−桑ノ原信−長野

今日は1日、レンタカーで走り回ることにしている。十分眠ったはずなのにどうもシャンとせず、睡眠時無呼吸症候群かなと疑ってみたりする。茅野駅前の営業所でクルマを受け取りいざ出発。長野県内を自分の運転で走るのは初めてで、しかもクルマは自分のではないから、なかなかに緊張する。加えて寝不足気味…不安材料には事欠かない。
第1番目の目的地、
普門寺信号場に到着する。ここは築堤上にあるが、道がついているので難なく行ける。30分ほどの間に4列車の通過シーンが撮れた。
次は
平出信号場跡へ行く予定だったが、どうも時間的にきつそうな感じがしたので割愛し、東塩尻信号場跡へ直行する。みどり湖駅を過ぎて集落の中の細い道をたどるが、道に迷ってしまう。Uターンするなどして入り込んだ山道がまた狭いの何の、クルマ同士はおろか人との離合も不可能だ。途中で急な上り坂が現れ、これこそが東塩尻への道なのだが、クルマの乗り入れは無理なので降りて歩くことにした。汗をだらだら流し、はあはあ言いながら急坂を登りつつ、俺はこんなとこで一体何やってるんやろかと自問してしまった。坂を登り詰めると辰野方に善知鳥トンネルがあり、しかもトンネルの中に列車のライトが見える。あわててカメラを構えてミニエコーの通過を撮った。平出に寄らなくて大正解だった。


日本三大車窓の一つ

塩尻市内を抜けて一路松本へ。松本に着いたら昼時だったので、駅でそばを食べて駅弁を買った。次の目的地・平瀬信号場へは余裕を見て出発したつもりだったが、渋滞に巻き込まれ、しかも信号場付近でクルマを止めるのに適当な場所がなかなか見つからず、撮影を予定していた列車交換をあやうく取り損ねるところだった。
このあとは明科−西条間にあった潮沢信号場跡を訪問することになっていたが、ここまでまったく時間の余裕がなかったので、潮沢も割愛して羽尾信号場へ向かうことにした。豊科から麻績まで長野自動車道を使って少しでも時間的ゆとりを生み出そうと思ったが、麻績からのR403聖高原越えに予想以上の時間を食ってしまった。
麻績方面から羽尾信号場へ行こうとすれば、道路配置の関係上いったん姨捨駅を経由して戻ることになる。姨捨駅から坂を下り集落の中をうねうね行くにつれ、人家が疎らになり道がだんだん狭くなる。
東塩尻の時と同じく、人ともすれ違えないような道が延々と続く。このクルマにはカーナビが付いているのだが、こんな山奥の道は表現されているはずもなく、画面上では道のないところをひたすら突き進んでいる。持ってきた地図も役に立たず、築堤上に見える複線の架線柱を目標にルートをとっていくしかなかった。


桑ノ原信号場 ここも眺めがよい

やっとの思いで羽尾信号場に着き、1時間近く粘って列車通過シーンを撮影。あの細道を再び通って姨捨駅に戻る。姨捨では快速列車の入線シーンを撮り、次は本日最後の目的地・桑ノ原信号場へ。この間の移動はR403を道なりに進んで2回曲がるだけなので、きわめてわかりやすい。信号場のほぼ中央に踏切があり、ここがベストポイント。眺めもよくて明るく、羽尾は「陰」、桑ノ原は「陽」という印象だ。ここでは特急と普通の交換を2回撮影することになっている。日がかげってきたが、光量にはまだまだ余裕がある。1回目の撮影後、新たなアングルを求めてあちこち移動するが、長野自動車道の橋脚が結構邪魔者となっている。これがなければ信号場全体が俯瞰できたのに、と思われる地点もあった。
自家製ダイヤグラムに載っていない貨物列車も来たりして、満足のいく成果が得られた。今日の日程はこれで終了、山を下りて市内のスーパー銭湯で一浴したのち、ガソリンを満タンにして長野駅前のレンタカー営業所に向かう。いやというほど細い道を走らされたので、傷のひとつも付いてるんではないかとひやひやしていたが、特に何も指摘されることなく円満にクルマを返却した。レンタカーはフットワークが広がるので助かるが、やはり借り物のクルマは運転していても気が落ち着かない。


「しなの」にあらず

長野駅近くのみやげ物屋で若干の買い物をし、そば屋に入って天ざるの夕食。長野に来るたびに判で押したようにそばを食べているような気がする。
今夜の宿は、数少なくなった夜行急行列車の「ちくま」。発車時刻は23時56分で、とりあえず22時までは駅前の書店で粘り、おもむろに駅の窓口へ向かう。「名古屋まで乗車券と急行券ください」と告げた言葉の響きが、我ながらすごく懐かしいものに感じられる。出されたきっぷはマルス発行の無機質さで、支払いもクレジットカードという違いはあるが、普通乗車券と普通急行券という買い方をしたのはきっと何十年ぶりかにちがいない。
22時30分くらいにホームへ入場し、最前部の6号車の乗車位置に立つ。私の他には誰もいない。自販機のホットココアをすすりつつ、列車の出入りを眺める。しなの鉄道列車が帰宅客を乗せて出ていく。貨物列車が轟音とともに通過する。振り向けば「あさま」がたくさんの人々を吐き出している。
23時40分ごろに「ちくま」入線、最前列右側のかぶりつき席を確保する。当然ながら遮光カーテンが引かれて前望ができない。発車時には座席の7割程度が埋まっていた。


167系の色違い混結

3日目(3/29・土)
名古屋−岐阜−美濃太田−白川口−下麻生−下呂−美濃太田−岐阜−大垣−米原−大阪−自宅

0時55分着の松本で意外にたくさん乗ってくる。が、塩尻で結構下車する。最終列車に乗り遅れた人々だろうか。
乗務員も東海に交代。すると、なんと右側の遮光カーテンを開けてくれたではないか。真っ暗なかぶりつきで何を見るのかと言われそうだが、信号現示など見るべきものはいろいろある。嬉しい反面、こりゃあ眠れないぞとも思う。
塩尻の次の駅、洗馬で14分間の運転停車。ここは複線区間なのになぜ? 追い抜きでもあるのかなと思っていたら、それもない。時間調整のためというなら、塩尻の発車時刻を14分遅らせた方がいいように思うのだが…。同じく複線区間にある藪原でも19分間の運転停車。
ほとんど眠れないまま、未明の名古屋に着いてしまった。今日は高山本線を訪れる予定なので岐阜まで乗ってもよかったのだが、乗車券を安くあげたかったのと、大垣夜行臨9375Mに少しだけでも乗っておきたい、という思惑があった。
9375Mは田町の167系3+3という編成で、大垣方3両が湘南色のボックスシート車、後3両が塗色変更・アコモ更新車だった。急行型直流電車にはこれが乗りおさめと思って湘南色の方に乗る。狭いシートで膝をつき合わせて眠る人々、網棚に並ぶ大きなバッグ、じめじめして淀んだ空気、窓の結露…昔と何ら変わりのない夜行列車の光景だ。


美濃太田以北はこいつの天下?


岐阜に着き、わずか20分程度の乗車で9375Mから降りる。ふと編成を見ると、「東京−大垣」のサボが6両中たった1両にしか入っていない。不心得者のしわざでないことを祈りたいが、これが現実である。
高山線の列車番号は末尾にCが付くとワンマン列車、Dならツーマンとなっている。岐阜からの美濃太田行701Cはかぶりつき前望が容易なキハ11だが、美濃太田からの1705Dは何となくいやな予感がする。美濃太田で待っていたのは予想通りキハ47。ツーマン車だから乗務員室後ろ中央の小窓しかなく、しかも遮光幕が下りているので前望は絶望だ。乗っては見たものの、前望できないのでは仕方ないので、白川口で降りて下麻生まで戻り、ワンマン列車の4711Cに乗り直すことにした。これもキハ47だったが、ワンマン仕様車なので若干の前望はかろうじて可能だ。
飛水峡鷲原福来少ヶ野の各信号場を前望撮影。福来信では上り列車との交換待ちを行った。


飛水峡信号場

下呂に着き、約1時間の折り返し時間を利用して公衆露天風呂で一浴する。折り返しの美濃太田行は1712C、やはりキハ47だった。下呂を出て3分ほど走ると少ヶ野信号場、ここで「ひだ1」と交換、鷲原信でも下り普通との交換があった。高山線も時間帯によっては相当スジの混んでいるところがあり、そんなところでは4つの信号場が威力を発揮してうまく列車をさばくダイヤとなっている。時刻表を参考に手製ダイヤグラムを引いてみたら、巧みな列車さばきが見られてなかなか面白い。
美濃太田で乗り換え岐阜に到着。とにかく眠い。身体が言いようもなくだるい。本来なら草津から貴生川へ出て信楽高原鐵道を訪れる予定だったが、とてもそれどころではない。明日は仕事だから体調を崩しては具合悪いし、かといってせっかくの信楽が…などといろんな思いがぐるぐる駆けめぐるが、結局信楽行きはやめることにした。20代のときなら多少しんどくても寄り道して帰る元気があったが、今はどうしても身体をいたわってしまう。やっぱりいつまでも若くないなぁと、ちょっとセンチになったりする。


この信号場の名前が一発でわかる人はさすが

大垣で乗り換えて米原へ向かう。米原行は2番線ホーム神戸方の突端の切り欠きにある3番線からの発車だ。延々歩かされて乗った車両は313系×2連。日中とは言え、天下の東海道本線がたった2両編成とは…
大垣を出た列車は
南荒尾信号場で赤坂支線と東海道下り線(新垂井経由)を分かつ。分かつと言っても、分かれていく方が本来の下り線であって、この列車は「垂井線」を経由して東海道を西へ進む。平日朝の、関ヶ原→垂井間「見かけ逆行運転列車」に乗りたいと思っているが、よほどのことがないと無理だろう。
大垣から米原までの間に、5本ものコンテナ貨物列車とすれちがう。旅客列車は2両でも、長大コンテナ列車による物流輸送はさすが大動脈の貫禄だ。EF66が元気なところを見せていた。
米原で新快速に乗り換え、後ろ髪引かれる思いで草津を通過し、大阪着。混雑する関空快速の車中で立っていると、東塩尻の坂道、羽尾への悪路に悩まされた記憶などが次第に遠ざかっていくような気がした。