岩徳線・錦川鉄道 森ヶ原信号場  前望編追加情報 

 YouTubeよんかくチャンネル「森ヶ原信号場」

現 地 編2002/8/9撮影)

岩国方を見る

簡素な小屋がぽつん

2021/7撮影のストリートビュー(短縮URL)

錦川鉄道側から列車が入線

制限20なのでそろりそろりとポイントを渡る

分岐の岩徳線側

こっちを向いているのは柱野駅の、
あっちを向いているのは信号場のそれぞれ場内信号機

場内信号同士が背中合わせに立っているのが珍しい

錦川が出ていった直後に進入するJR  ダイヤ組成の都合上、このような通過パターンが多い

前 望 編(2007/4/29撮影)

【追加情報】新幹線保線基地分岐と森ヶ原信号場・清流新岩国駅の関係

<現地情報>

位 置
岩徳線川西から1.9キロ、同線柱野から1.0キロ、錦川鉄道清流新岩国から2.0キロ地点 

所在地
山口県岩国市御庄

交 通 
岩国駅または新岩国駅からいわくにバス大藤行で思案橋停下車、または岩徳線柱野駅から徒歩で約1.5キロ

現地の状況 
信号場の下をくぐってすぐ左手に小屋が見える。道路と信号場が極めて近接し、ほとんど両者いけいけ状態。周りは木々が生い茂って鬱蒼としているので、まさかこんなところで線路が分岐しているなんて…と思ってしまうだろう。分岐を直進するJR側は上下とも制限55となっているが、分岐の川西方で制限25がかかるので、実際はJRも20キロ位まで速度を落としてそろそろと通過していく。
道路は信号場前から上り坂になっているため、少し登って振り返ると一番下の写真のような眺めが展開する。線路はそのままトンネルに入って岩国へ向かう。ただし道路は1車線の割に通行量が多いので、歩行には十分な注意が必要。
現地訪問する場合、上記のいわくにバス大藤行は本数が極めて少ない(2021/10/1改正で1日2本)ので、岩徳線柱野駅から歩く方がよいと思われる。川西駅から行こうとすれば欽明路道路というむちゃくちゃ交通量の多い県道を通ることになり、しかも急坂・トンネルまであるので徒歩ではとても無理。いっそのこと列車に乗って運転席横でかぶりつくのが最も安全で手っ取り早いか。

当信号場に関するその他の考察
Wikipedia森ヶ原信号場には、1960年の岩日線開業当初は「信号場内の分岐器を岩日線を運行している運転士や車掌が手動で操作(運転士が河山駅方面分岐に切り替え、車掌が徳山駅方面分岐に戻し)していた」との記述があるが、これが事実だとすると当時の閉そく取り扱いがどうなっていたのか、とても気になるところである。
当時の閉そく方式についての資料は残念ながら見当たらなかったが、ひとつ言えるのは、かつて山陽本線の一部として君臨していた岩徳線は1943年に自動閉そく化されており、
1960年に設置された森ヶ原信号場の分岐器は自動閉そくの支配下にあったということ。自動閉そくとはいえCTC(列車集中制御装置)がなかったこの時代、駅構内の分岐器の転換は駅業務だったため、森ヶ原信号場の分岐器の転換を乗務員の現地作業として行うことについてはあり得ない話ではないようにも思えるが、それでは岩日線側の閉そく方式が謎のままとなってしまう。

さて、時代は下って1978年3月時点の岩日線森ヶ原−北河内間の閉そく方式は「連動閉そく」となっており、信号場の分岐器は柱野駅から遠隔操作されていたことが判明。さらに調べてみると、この連動閉そく式はなんと1943年、室蘭本線の一部区間が初導入事例とされていることから、森ヶ原−北河内間は1960年の開業当初から連動閉そく式だった可能性が高い。
連動閉そくも非自動閉そくの一種なので当然ながら閉そく区間両端の停車場には閉そくのための装置と人員を配置しなければならないが、これはあくまで推測ではあるが、岩徳線柱野駅長が森ヶ原駅長を兼務して
森ヶ原−北河内間の閉そく作業を行なっていたと考えられないだろうか(上の写真の信号場小屋はあまりにも狭く、そこそこデカい連動閉そく装置や転てつ機を置くスペースなどないと思われるので)。
また、1960年の開業当初は柱野駅からの遠隔操作設備が未整備だったため、連動閉そくによって閉そくが確保された上で乗務員が現地で転轍機をよっこらしょっと転換していた、というのがWikiの記述の真相ではないだろうか。

そして1983年、岩徳線にCTCが導入されるとともに岩日線森ヶ原−北河内間も同時に連動閉そくから自動閉そく化、CTC化となり、現在は森ヶ原信号場関係の信号機と分岐器は広島のCTCセンターで制御している。