日  程 2007年4月29〜30日


プランニングに頭を抱える管理人

1日目(4/29・日)
自宅−なんば高速BT−広島−岩国−御庄−新岩国−広島−三次−備後落合−新見

今回の旅は1泊のショートトリップで、時間を有効に使いたいので前夜4/28発の夜行バスで出発することにしている。もちろん私は実質1泊2日と考えているのだが、周囲は「えっ、足掛け3日間も行くの」という認識なので弁明に苦慮している。
南海バス「サザンクロス」広島行はなんば高速バスターミナル2350発で、十分な余裕を見て23時前に自宅を出る。だいたい私は子どもの頃から夜に出かけるのが楽しくて仕方がない。街は人通りが少なく風はひんやりしているが、ステップは軽く心はウキウキしている。
指定された座席はB
席、3列シートの真ん中だ。夜行では窓際にもたれて寝る習慣がついているので真ん中だと落ち着かず、背もたれを目一杯倒してもほとんど眠れなかった。


鮎が跳ねる「せせらぎ号」(岩国)

翌朝620広島駅新幹線口着。まずは錦川鉄道に乗るため山陽線で岩国へ向かう。岩国を通る夜行バスはあいにく席が取れず、そのせいで木に竹を接ぐような往路行程となってしまった。ガラ空きの普通列車に乗り込み、窓際に席を取るとたちまち眠気が襲ってくる。
次の錦町行は新型車両のNT3000形「せせらぎ号」。木目調を主体とした落ち着いた車内装飾は、かつての阪急電車でいう「走る応接室」を思わせるグレードの高さだ。運転席横のかぶりつきスペースも申し分なく、カメラを構え発車を待つ。今回錦川鉄道を訪れたのは、森ヶ原信号場ー御庄間の信号機の配置が前から気になっていたので、その実地踏査という趣旨である。
岩徳線徳山行の12分後に続行して出発。岩徳線はれっきとした単線自動閉塞で、停車場間には閉塞信号機が誇らしげに立っている。さすが旧・山陽本線の貫禄とも思えるが、非常時の迂回ルートとしての活用をも想定しているのだろうか。

御庄はもともと交換駅となる予定だったそうだ
錦川鉄道の営業上の起点である川西を過ぎ、森ヶ原信号場の分岐を渡ってしばらく走ると信号場の上り場内信号機が現れる。分岐から上り場内信号機までがあまりにも離れすぎているので、地図で計測してみたら実に1キロ以上あった。
その上り場内信号機のわずか錦町方には下り列車に対する信号機があり、新岩国駅前の新幹線保線区への引込線を分岐すると今度は上り列車への信号機、そして棒線の御庄駅ホームに到着する。御庄の出発信号機みたいな顔をして立っている信号機は引込線分岐を防護するものだが、変わった信号機の配置だと思う。
→くわしくは信号場応援団森ヶ原信号場を参照
このあと、当初プランでは御庄から岩国へ戻ってわずか3分接続で広島へ至り、またもや3分接続で芸備線へ乗り継ぐという綱渡り行程となっている。最初は多少無理してこのプランを実行しようと思っていたが、気ぜわしい上にどこかでちょっと遅れが発生したら即アウトとなるので、やはりここは「魔法の杖」を使うのがよかろう。御庄周辺の写真を撮り終えた私は新岩国駅へ向かった。

最長片道きっぷには足もとにも及ばないが
私は岩国から山陽線ー芸備線ー伯備線ー姫新線ー因美線ー山陰線ー福知山線等を経由し阪和線鳳に至る普通乗車券を持っている。近所のトラベランドに頼んで発行してもらったもので、引き取りの時に窓口のおねえさんから「とても勉強になりましたホホホホ」と感謝か皮肉かわからない言葉をいただいた、渾身の力作きっぷである。
ただ、このまま新岩国から乗れるのか心配だったので、駅窓口に相談したらどうぞどうぞと言うことで、自動改札も通れた。帰ってから調べてみたら、こういうケースも選択乗車制度の一類型として認められているそうだ。
ホームで「こだま」を待っていたら「のぞみ」がえげつないスピードで通過して行った。故・宮脇翁ではないが、あんな危険なものによく乗っていられるなあと思う。とにかく新幹線のおかげで広島では30分以上もの時間を稼ぐことができた。
ここから今日の目的地の新見までは途中食料調達が困難なので、昼時にはまだ早いがホーム立ち食いのラーメンをすする。マルタイ棒ラーメンを思わせるスープと細麺で、割とうまかった。

貫通扉が埋められちょっと間ヌケ?(広島)

呉線ホームに見慣れない車両が停まっているので見ると「瀬戸内マリンビュー」というキハ47系の改造車で、車内は満員御礼の人気ぶりである。キハ120の台頭で余剰となったキハ47がこういうところに活路を見出しているのであろう。それにしても呉線にDCが入線するのは、近年では非常に珍しいのではないだろうか。
こちら芸備線三次行はキハ40・47の3連。割と空いていたが、矢賀で交換したキハ120×2連の広島行は乗客がはみ出しそうになっていて、終戦直後の引き揚げ列車のごとく凄惨な込み具合であった。大都市近郊でこんなコンパクト車を運用することはなかろうにと思う。
中三田では全国唯一となったキハ58系急行「みよし」と交換。これから中国山地縦断にかかるわけだが、しばらくはのんびりとした田園風景が続く。ぼーっと車窓を眺めていると、子どもの名前や家紋が入った見事なこいのぼりを揚げている家が多い。家が大きいこともあるだろうが、過疎化と出生率低下で子どもが重宝がられているのかな・・・などと考えているうち、三次に着いた。広島から三次まで乗り通した人は案外多かったようだが、備後落合行に乗り継いだのはごく数人だった。


まだあったホーロー駅名標
備後落合行は予想どおりキハ120単行で、10人くらいの客を乗せて三次を出発。この先の芸備線は普通列車だけの閑散とした区間になってしまったが、急行「ちどり」「たいしゃく」そして冬期にはスキー臨も走っていた時代のことを思い出さずにはいられない。
備後落合で新見行に乗り継いだのは私のほか数人のみだった。ほどなく木次線の列車が到着し、3面あるホームはすべて塗色の異なるキハ120で埋められて、山間の小駅がちょっとした賑わいを見せる。
ここから新見方面への列車は1日わずか3本、この1400発を逃すと次は2006発までない。御庄からの乗り継ぎが絶対失敗できなかった理由がここにある。
定員が少ない、トイレがないなどで評判がよろしくなかったキハ120も、この新見行の車両にはトイレが設置されていた。そりゃあ1日3本しかない列車内で催してきたらどうしようもないからトイレは必要だろうが、これが驚くほどハイグレードな洋式トイレで、用を足しているときだけは特急列車に乗っているような気分が味わえる。

あぼ〜んされた交換設備(小奴可)
備後落合からはかぶりつき前望に興じる。日に6回程度しか車輪に踏まれないレールは特段錆びているわけでもなく、こうやって走っている分にはごく普通だ。ただ、保線の頻度を減らしたためかやたらと制限25や20が出現し、そのたびに極端なノロノロ運転となる。
3往復区間である備後落合ー
東城間は現在1閉塞となっており、道後山・小奴可・備後八幡には交換設備や相対ホームの遺構があった。道後山はかなり前から棒線駅だったが、小奴可と備後八幡では場内信号機の柱がまだ立っていたことから、棒線化は比較的最近のように思える。
列車は途中ほとんど乗り降りのないまま東城着。ポイントを右方に渡って本屋のある1番線に入線し、数人が乗降した。東城を過ぎると少しずつ乗降客が増える。
備中神代から伯備線に入って元信号場の布原に停まり、D51三重連の撮影で有名だった鉄橋を渡ってトンネルをくぐるとほどなく複線となる。一見複線始終端型信号場のようだがここは既に新見駅構内で、複線区間は2キロほど続く。
新見1521着。ちょっと早いけれど今日の行程はこれにて終了とする。寝不足もあるので早めにホテル入りし、撮影したビデオやデジカメ画像を見返しながらゴロゴロしていた。
2日目につづく